真夏のアズベリーパークにて〜Music from Okinawa・野田隆司の世界音楽旅(10)


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スモールタウンでの息苦しさを背景に、主人公が葛藤しながら町を出ていくことを主題にした映画は多い。彼らは日常の閉塞感を脱出して、ここではないどこか、心の中に思い描く約束の地を目指す。いくつものそうした作品に、これまで強いシンパシーを感じてきた。先日、北谷の映画館でみた「カセットテープ・ダイアリーズ」もそんな作品だった。

主人公はイギリスのルートンという田舎町に暮らすパキスタン系の高校生ジャベド。彼が直面しているのは、閉鎖的な町で受けるあからさまな人種差別や保守的な父親との溝を埋めることが困難な確執。息の詰まる町で彼の逃げ道になっていたのは、日々ウォークマンで楽しむ音楽や詩作である。ある日、友人の薦めで出会った、アメリカのロック・ミュージシャン、ブルース・スプリングスティーンの音楽と言葉が、彼の未来への扉を開いていくのだ。

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アズベリーパーク。ボードウォークに沿ってビーチが広がる。

アズベリーパークは、アメリカ東海岸のニュージャージー州にある海辺の小さな町だ。海岸沿いに広々としたボードウォークが延々と続いている。ここは、ブルース・スプリングスティーンが育った町としても知られていて、多くの歌の舞台にもなっている。彼もまた、アズベリーパークというスモールタウンでの現実を目の前に、音楽を表現することによって折り合いをつけていくのだ。

 

コンベンションホールは、ボードウォークからビーチに突き出した形で建つ。

私はこの町を2度訪ねたことがある。最初に訪れたのは2003年の8月の終わり。マンハッタンでレンタカーを借りて、アップステイトにアレサ・フランクリンのライブを聴きにいく途中で寄り道をした。アレサを聴いた翌日にはニューヨークに戻って、スプリングスティーンを聴くことにしていたので、彼のホームグラウンドである町の風景を目に焼き付けておこうと思ったのだ。

2001年9月11日、同時多発テロにより、ニュージャージーの対岸のニューヨークは大惨事に見舞われた。翌年、スプリングスティーンは、その出来事にインスパイアされたアルバム「The Rising」を発表した。作品には、日常に突如降って湧いた惨劇を、人々が静かに受け止める姿や、再び立ち上がろうともがく姿が描かれていた。どこか生々しい印象のアルバムに、作家としてのある種の贖罪(しょくざい)の意識のようなものも感じた。それまで決して熱心なファンというわけではなかったのだが、この作品に大きな衝撃を受けて一度ライブを生で聴いてみたいという思いが募っていった。

アルバムの最後に収録された「My City Of Ruins(廃墟になった僕の街)」は、テロ事件を下敷きにしたものではなく、もともとは故郷・アズベリーパークの復興のために書かれた曲だった。かつてこの町は、ニューヨーカーのリゾート地として多くの人々で溢れかえったという。しかし、大型のカジノを要するアトランティックシティーなどに客足を奪われて、酷く寂れてしまった。この曲の最後に繰り返される「さぁ、立ち上がろう」という叫びからは、ニューヨークのテロ被害からの復興と、アズベリーパークの町の再興の両方が透けて見えた。

朽ち掛けたカジノ跡。美しい。

2003年夏のアズベリーパークは、まさにこの歌に近い状況だった。目の前には美しいビーチが広がっているのに、人影はほとんどなかった。よく晴れた静かな夏の終わりのボードウォークは、不気味に空っぽな雰囲気で、見方を変えると詩的ですらあった。

かつてスプリングスティーンが演奏して、今もことあるごとに顔を出すライブハウス「ストーン・ポニー」。掃除をしていた男性に頼んで開店前に覗かせてもらった。どこにでもあるような田舎のライブバー。それでも、ステージの壁やカウンター、床板に至るまで、さまざまな音楽が染み渡っているような温かな雰囲気があった。コンベンションホールのそばのオープンカフェで、ハンバーガーとコーラを口にしながら目の前の海を眺めた。営業を止めたホテルやカジノ、崩れ落ちた家屋。その一つひとつは、忌むべきスモールタウンの現実であるとともに、歌の主人公たちの舞台装置でもあったわけだ。

 

「Greetings from Asbury Park(アズベリーパークからの挨拶状)」は、ブルース・スプリングスティーンの1stアルバムのタイトルでもある。

この年、「The Rising Tour」の一区切りとして、スプリングスティーンは、地元ニュージャージーのジャイアンツスタジアムで、10日間70万人を動員するライブを行っていた。アルバム「The Rising」は、「911」で心を痛めた人々に寄り添い、傷をいやすような一面もあった。そのことが、チケットが70万枚あっても足りないくらい、地元の人からも大きな評価を得た理由の一つだと思う。

何かしらの外的な要因で、気持ちの部分が損なわれてしまった時、それを補うために、音楽やエンターテインメントは欠かせない。気持ちを前向きにしてくれるし、直接の当事者以外の人たちの共感も集めることができる。そのことは今回のコロナの騒動にも当てはまる。音楽やエンタメの大切な役割なのだ。

私が足を運んだのは10日間の最終日の公演。過去のヒット曲を並べるわけではなく、新作のアルバムで示された物語、メッセージを届けるための構成がなされたステージは圧巻だった。どちらかと言えば重い印象のアルバムだが、完璧なロックショーであった。それは、彼のスタンスがデビュー以来、一貫しているからにほかならないからだと感じた。常に町に暮らす人々のシビアな現実に目を向け、支払うべき代償を支払いながら前を向く。愛されないわけがないのだ。

アズベリーパーク駅のホーム。NYマンハッタンからはニュージャージートランジットのコースとラインで2時間ほど。日帰りも可能。

アズベリーパークを再び訪れたのは、2015年の夏のことだ。この時は、一泊宿をとって、マンハッタンのペン駅から電車に乗った。アズベリーパークまで約2時間、各駅停車はジャージー・ショアをゆっくりと進んでいった。

街の雰囲気は12年前とは随分違っていて、少しだけ活気が感じられた。廃墟に近い状況だったボードウォーク沿いにも店ができて、ビーチで遊ぶ人も多かった。ボードウォークは、そのままスプリングスティーンの歌の舞台でもあり、ここの風景は、いくつもの作品で描かれてきた。まるで”歌碑巡り“でもするかのように、何度か往復して、海からの風を感じながら、人々の様子を眺めていた。

 

延々と続く海岸沿いのボードウォークは、名物。

ライブハウス「ストーン・ポニー」は、店に近い空き地に大きなステージを作って、野外イベントを夏の間定期的に開催していた。コンベンションホールでは、タトゥーのフェスティバルが行われていて、12年前にはなかったダイナーで、地元のクラフトビールを飲んだ。店の男は「4、5年前にこの店を始めたけど、その頃からこんな風に賑わっていた」と教えてくれた。何かしら風向きが変わったのだろう。

伝説ともいえるライブハウス「ストーン・ポニー」。おそらく300人も入ればいっぱい。ツアーバンドも多数ブッキングされている。

夜は「WONDER BAR」に出かけた。「ストーン・ポニー」と並ぶ人気のライブバー。SNSで、1週間ほど前に、この店にスプリングスティーンが現れてセッションしたという投稿を目にしていた。この夜、客席はまばらで、シカゴから来たバンドが演奏していた。ビールのジョッキを重ねてみたが、待ち人が来るとは思えなかった。伝えたいこと、尋ねたいことは山ほどあるのだが、もし彼が目の前に現れたとして、何を話せたのだろう。

「ワンダーバー」。一人でも何時間でも潰せるような居心地の良さは、バーの大きなセールスポイントになる。

映画「カセットテープ・ダイアリーズ」で、主人公はシビアな現実を受け止めながらも、かたわらにあるスプリングスティーンの音楽の助けを得て、目の前の閉塞感を自力で突き崩していった。

その姿に深い共感を覚えながら、ブルース・スプリングスティーンの音楽にのめり込んでしまうと、誰もが少なからず同じような想いを抱くだろうと考えていた。それは自分自身も同じような想いを抱えてきた一人だからなのだ。おそらく二度と訪れることはないアズベリーパークの記憶を思い出しながら、改めてそう感じた。

 

【筆者プロフィール】

野田隆司(のだ・りゅうじ)

桜坂劇場プロデューサー、ライター。
1965年、長崎県・佐世保市生まれ。
「Sakurazaka ASYLUM」はじめ、毎年50本以上のライブイベントを企画。
2015年、音楽レーベル「Music from Okinawa」始動。
高良結香マネージャー。