今にも「ヒヒーン!」と聞こえてきそう 思い出残る各地の馬場(ンマイー)

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地方部記者が担当地域のイチオシを紹介する「J(地元)☆1グランプリ」。今回は馬場(ンマイー)を紹介します。かつて、走る馬と乗り手の姿の美しさなどを競う「ンマハラシー」(琉球競馬)が行われたンマイーは現在も集落の伝統行事や地元住民の憩いの場に利用され、集落の宝として受け継がれています。

県内には170カ所以上のンマイーが確認されており、姿、形はバラエティーに富んでいて、今にも「ヒヒーン!」という馬の鳴き声が聞こえてきそうです。ぜひ各地のンマイーへ出掛けてみてはいかがでしょうか。


仲原馬場 ★ 今帰仁村


いまだ大木の松並木が残る仲原馬場=今帰仁村越地

プレビュー 県内で唯一形残る


今帰仁村越地の国道505号を村役場方面に走ると、リュウキュウマツの大木が並ぶ広場が見える。「仲原馬場」は戦争で多くの物を失う中、県内で唯一形を残した馬場だ。長さは約250メートル、幅は30メートルほど。戦前はマーパラセ(競争)、戦後は運動会やエイサー演舞などさまざまな行事の開催地となり、地域から「憩いの場」として愛され続けている。

旧暦4月15日にはマーパラセが開かれ、越地の70代男性は「盛り上がり過ぎてけんかが絶えない。昔から交流の場だったと祖母から聞いた」と記憶をたどる。

「沖縄の文化財」(県教育委員会)によると、1894年には国頭郡の各学校による連合運動会も開かれ、3000人が二人三脚、綱引きなどで競った。村内約10の字が集まり、エイサーの披露会を開いたことも。現在は毎年旧盆になると、青年会がエイサーを踊る。元村役場職員の大嶺英恭さん(70)は「小さい頃は、松に登りスズメを捕まえたよ」と懐かしそうに話す。子どもたちにとって格好の遊び場でもあった。

1959年に県の文化財(史跡)に指定された。当時のままの馬場は道がでこぼこで、通学路に使う保護者から度々苦情が上がるという。村の玉城靖文化財係長は「村民には文化財としての重要さを周知し、保全に尽くしたい」と話した。

(喜屋武研伍)

楚辺馬場 ★ 読谷村


かつて馬場があった海岸沿いを指す池原玄夫さん(右)と比嘉進楚辺自治会長。現在は米軍の保養地となっている=8日、読谷村楚辺

プレビュー ポーポー広まりの原点

白い砂浜に、目が覚めるような青海原が広がる読谷村楚辺のトリイビーチ。今や米軍関係者の憩いの場の同地にはかつて、旧暦4月15、16日のアブシバレー(畦(あぜ)払い、豊作祈願の行事)にンマハラセー(競馬)が盛大に開かれた楚辺馬場があった。「遠くは首里からも大勢が見物に来たよ。場外にはおもちゃや食べ物の出店も並び、幼心にとってもウキウキした思い出があるさぁ」。池原玄夫さん(86)=村楚辺=は記憶をたぐり寄せる。

一帯は楚辺兼久(すびがにく)と呼ばれ「明治13年沖縄県統計概要」によると、馬場は長さ約250メートルで海岸沿いに伸びていた。大会には各地の名馬が集結し、その美技を競ったという。池原さんによると楚辺にも当時、競馬用の宮古馬を所有する世帯が2、3あったが、いずれも「地域のお金持ちで『マーチムサー』や『フクターコージャー』など面白い馬名が多かった」という。

楚辺のンマハラセーで忘れてはいけないのが、同地名物の「カラマカーポーポー」だろう。もてなし上手の楚辺の人々は、字外からの来客に手作りポーポーを振る舞うのが常だった。「それがきっかけで楚辺ポーポーは人気となり、沖縄全域に広まったと言われているんだよ」。池原さんは地域の自慢だと、教えてくれた。

(当銘千絵)


楚辺の名物ポーポー



保栄茂の馬場 ★ 豊見城市


芝生が生い茂る保栄茂の馬場=豊見城市保栄茂

プレビュー 日常に溶け込む場


豊見城市保栄茂(びん)の住宅街の一角に、一面芝生に覆われた大きな広場がある。子どもたちの遠足や遊び場、ウオーキング、ペットの散歩コースなど、保栄茂の馬場は人々の日常に溶け込んだ生活感あふれる場所だ。

元々馬場は集落の中央にあるナカミチと呼ばれる現在の市道24号線にあったが、1877年、集落の人口が増加したことによって現在の場所に移転した。保栄茂自治会長の當銘隆さん(61)は「昔から重要な場所として大切に守られてきた。ウマチーの綱引きや豊年祭など、伝統行事は必ず馬場でやっている」と話す。

集落の最大の行事は旧暦8月15日の十五夜の豊年祭。特に卯(う)年と酉(どり)年に開かれる十五夜は「大豊年祭」と呼ばれ、区民総出で祭りに参加し、豊作と無病息災を祈願する。大豊年祭のトリを飾るのは200年以上続く「巻(ま)ち棒」だ。中学生から60代の男性約150人が、ホラ貝やドラの音に乗せて、一糸乱れず勇壮で迫力のある演武は見た者を圧倒する。

「保栄茂ぬ字史」の発刊に尽力した當銘正幸さん(79)は伝統行事の大切さを伝える。「巻ち棒は集落の誇り。新型コロナウイルスの影響で、今年の豊年祭は中止となったが、先輩たちが築き上げた伝統行事を後世につなぎたい」と力強く語り、今も馬場は地域の心のよりどころとなっている。

(金城実倫)

鏡原馬場 ★ 宮古島市


石組みの審判台が今も残る鏡原馬場跡=宮古島市

プレビュー 苦難から解放象徴


1894年3月、宮古島市平良下里の鏡原馬場に集まった農民たちは歓喜に沸いていた。人頭税廃止を求める請願書を国に提出した代表団が廃止確約を取り付け帰郷した。人々は一行を出迎えて同地で宴会を開き、ヌーマピラス(競馬)で祝った。ぽっくぽっくと優雅に歩く宮古馬の美しい姿を眺め、260年余にわたる苦難からの解放を堪能した。

鏡原馬場は現在、大部分が農地と住宅に変貌したが、石を積み上げて造られた審判台は当時のまま残っている。1979年に当時の平良市(現在、宮古島市)の史跡に指定された。人頭税は1903年に廃止され、廃止100年を記念して2002年に同地に石碑が造られている。

宮古島市教育委員会文化財係の久貝弥嗣係長によると、宮古島では士族以外の競馬は禁じられており、人頭税廃止を祝う鏡原での競馬は、島で初めて農民が開いたものだという。以降、島内各地で盛んに行われ、各所に馬場が設けられた。

琉球競馬は速さではなく前後の足を同時に動かす側対歩で美しく歩く様を競った。宮古馬は温厚で側対歩が得意だったため重宝され、沖縄本島でも活躍した。

(佐野真慈)






美意識の高さ、心の豊かさ

馬の足並みの美しさを競う「ンマハラセー」。初めてその存在を知った時、ウチナーンチュの美意識の高さ、心の豊かさを感じた。出馬する馬は農耕や荷役に使わず、競走馬として育てられた。優勝しても賞金は出ず、賞品はてぃーさーじ(手拭い)だけ。裕福でないとできない娯楽だ。一方で、観客の間で金銭の賭け事はなかったというから驚きだ。純粋に多くの人が馬の美しさに酔いしれていたのだろう。

詳しくは「消えた琉球競馬」(梅崎晴光著)に譲るが、昭和初期に活躍した名馬「ヒコーキ」が90年余をへて、再び現れた。芥川賞を受賞した「首里の馬」(高山羽根子著)に登場する。ぜひご一読を。

(亜)


(2020年9月13日 琉球新報掲載)



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