『別れのしきたり 那覇港那覇埠頭岸壁』【古写真から読みとく当時の街の姿 Okinawaタイムマシーン航時機】


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同じ場所で撮影したタイムスリップ写真から変貌を読み取る。
レンズを通して見る街並みや建造物は、当時の生活や世相を映す鏡。現代にも息づく街の魅力とパワーを再発見しよう。

いつもは戦後の8ミリフィルムから抜き出した画像を紹介していますが、今回は戦前の記録映像からも紹介したいと思います。モノクロの写真は、1932年にハワイ移民の渡久地政善がプロデュースした『沖繩懸の名所古蹟の實況』のラスト場面で、出港する船上から撮影した那覇港那覇埠頭の映像です。渡久地政善はこの時にもう一本、辻を舞台にした『執念の毒蛇』も撮影していて、そちらでは船で到着する主人公と港の様子を陸側から撮っています。

1932年:戦前の記録映像『沖繩懸の名所古蹟の實況』に映る那覇港の様子

那覇港といえば、琉球王朝の時代から物流の拠点であり異国の使者を迎える重要な港でした。明治時代から戦前までは、隣接する東町が那覇市の中心でした。そんな場所だけに写真や映像はかなり残っています。

離岸する船上から埠頭を撮影

ただこの記録映画がユニークなのは、この船出の場面は撮影隊が実際に沖縄を離れるタイミングで撮影していることです。離岸する船上から徐々に遠ざかって行く際に、旅館の人々や警察(軍人?)らしき人々が実際に見送りに来て手を振っています。興味深いのは左側にいる旅館の人々が手を振る時に腕を前後に動かし、右側にいる制服の人々は腕を横にグルグル回していること。沖縄式と日本式の別れのジェスチャーの違いが、左右で対照的にくっきりと記録されているのです。

1970年 那覇港の出港場面 撮影:真境名敏夫

カラーの写真は同じく那覇港の映像ですが、撮影されたのは1970年。カラフルな紙テープが船上から見送りの人々に投げられ、その紙テープが切れるまで名残惜しい別れの儀式が華やかに行われていたころの映像。当時はまだ飛行機で本土に渡る人は限られており、時間が掛かる船旅というのが庶民の間では一般的でした。さらに言えば本土に渡ること自体が、発つ者、送る者にとって特別なできごとだったことがうかがえます。

2021年 主な旅客航路は新港埠頭に移り、鹿児島県方面のフェリーやレストラン船・遊覧船などが利用する現在の那覇港

 


 

執筆:真喜屋 勉(まきや つとむ)

沖縄県那覇生まれの映画監督であり、沖縄の市井の人々が撮影した8ミリ映画の収集家。沖縄アーカイブ研究所というブログで、8ミリ映画の配信も行っている。

https://okinawa-archives-labo.com/