しなやかに生きる モデル SHOKO(上) 


しなやかに生きる モデル SHOKO(上) 
この記事を書いた人 座波 幸代
モデルとして活躍する県出身のSHOKOさん

  ある時はしっとりエレガントに。ある時は大きく口を開けて笑い天真爛漫に。日本人っぽく見えたかと思えば、外国人っぽく見えたりもする。沖縄県出身のモデルSHOKOさん(29)のイメージは変幻自在だ。彼女は名前こそ出ないがワタベウェディング、アンダーアーマー、スターフライヤーなど私たちがよく知っている企業の広告モデル。
 大学時代に沖縄から海外に飛び出し、アジア圏で活躍。男性向けファッション・カルチャー雑誌「GQ」の台湾版の表紙を飾ったこともある。3年前から拠点を東京に移し活動を続けているSHOKOさん。どうやって道を切り開いてきたのでしょうか―。
 

初めて1人で行った海外で・・・

―糸満市で育ち、沖縄大学在学中に台湾へ。そのいきさつは。

 最初は本当に軽い気持ち。沖縄のモデル事務所と東京のモデル事務所に所属していたんですけど、東京の事務所の人に台湾で働いている人がいたんです。その人とルームシェアする形で、20歳の夏休みに2カ月、台湾に行ってみた。私もずっとモデルするとは思っていなかったし、事務所も「モデルとしてだめなら就職活動すれば?」という感覚でした。

 初めて1人で行く海外で、中国語も話せなかった。でも2カ月だから何とかなるかな~と思っていた。スーツケース1個持って台湾に行ったんだけど、台湾がどんなところかイメージもわかなくて、日本で使っているシャンプーを持って行ったんです。行ってみると台湾は沖縄より都会で、シャンプーもどこでも買えた(笑)。

 最初は楽しい!の一言。台湾で所属していたのは外国人モデル専門の事務所。ヨーロッパのファッションショーで活躍するモデルたちがオフシーズンに台湾で仕事をしていました。私、きれいな人を見るのが好きなんです。同じ年頃のきれいな人がたくさんいて大騒ぎ。「背高い!顔ちっちゃ!足長~い!」って。

カメラを向けるたびに表情がくるくる変わる

作戦は「すき間商法」

―台湾では人気雑誌の表紙を飾ったり、映画に出たりしました。仕事ははじめからうまくいったのですか。

 最初の頃は大学の夏休み、冬休みに行っていたので「いつでも戻れる」という軽い気持ちでした。仕事もそこそこ。 大学3年生になると大学の単位はほとんど取れていたので、大学の休みの間ではなく、ある程度長い期間、台湾に行くようになった。その頃、沖縄の友達は就職活動を始めていて、私も海外で働きたいという気持ちが強くなっていったんです。

 当時私は親からお小遣いをもらっていたんですけど、長く台湾にいるとお金が足りなくなって、本気で仕事を取らないといけなくなった。そこではじめて「やばっ」て思って。でも言葉も話せないし、片言の英語で行き当たりばったりでした。

 オーディションに行っても最初は、差を感じました。私はショーモデルではないから「歩いてください」と言われてもそれっぽくしかできない。身長も私は170センチしかないのに対してほかの人は175センチ以上。そこで勝負はできない。どうやっても同じところに立てない。なら彼女たちができないポージングをしようと。

 私の作戦は「すき間商法」。彼女たちがしないコミカルな表情をしてみたり、彼女たちが嫌がるお笑いの要素が強いCMの仕事などもしました。 台湾は日本好きな人が多いので、見た目は白人なのに日本語を話す。中国語も日本語なまりというのが受けたようです。次々に仕事は広がっていきました。

―モデルの仕事の魅力って何ですか。

 広告のモデルって黙って座っていれば仕事が来るもんじゃないんです。毎日オーディションを受けて仕事を取る。それは大変じゃない?と言う人もいますが、私はその方が仕事をしている感じがする。
 表情一つとっても私は言われた通りの表情をするより、「これはこんな感じかな」と私なりに考えて、クライアント、カメラマンと一緒に作り上げていく方が好き。

(聞き手・玉城江梨子)

SHOKO(しょうこ)  本名・池間晶子 1986年生まれ。沖縄県糸満市出身。18歳でモデルデビュー。沖縄大学在学中の20歳の時に台湾に行ったのを機に海外中心のモデルとして活動。2012年には台湾・中国の合作映画「宝島双雄」に出演。「GQ」台湾版の2014年2月号の表紙を務めた。2013年から拠点を東京に移し、広告のモデルとして活動している。

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