自然を前に やんばるからの手紙(1) 根本きこ


自然を前に やんばるからの手紙(1) 根本きこ
この記事を書いた人 佐藤 ひろこ

やんばるの自然を前に

 5年前にやってきた沖縄県。東村の高江を経て、今は名護に住んでいます。「やんばる」というと名護以北でしょうか。許田インターを降りれば、左に見えるアクアマリンの海が心をさーっと洗ってくれます。うつくしい風景との出合いは、最高のギフトであると同時に、「はっと我に帰る瞬間」でもあります。 「ようこそ、やんばるへ」。海が、そして山が微笑みかけてくれます。

 高江ではジャングルの中に暮らしておりました。帰路の途中にある川には、たくさんのタナガー(手長海老)とカエルが棲んでいます。河原にはカエル目当てにハブもいて、帰りが暗くなると懐中電灯を足元に照らしハブを避けながらじゃぶじゃぶと川を渡りました。こんなことを5年もやっているとさすがにいろいろなことに慣れて、満月だったら懐中電灯なしでも歩けたり、いるはずのハブがいないと逆に心配になったり。「人っていうものは順応性があるんだなぁ」と、いつの間にか「個人」より「人」とくくっている自分の言葉に驚きます。

この「個人」、「人」というのは同じようで違う。

 自民党の憲法改正草案では、13条の「全ての国民は、個人として尊重される」が、「全ての国民は、人として尊重される」になっています。その意図は、今の行き過ぎた「個人主義」を締め付けるために、あえて「個」という文字を取るというもの。誰もが等しく人権を認められるという現憲法は、為政者にとって都合がよくないのでしょう。なぜなら、「私はこう思う」「いや、僕はこう思う」「俺はこうだけど、君はどう?」みたいなことをやっていたら煩わしい。いっそ、「人」という一括りにして、全体統制した方が何かとやりやすい。これがまかり通ると、いつの間にか意(異)を唱えることに圧力がかかり、自己規制され、やがて自己責任といった、サイクルが生まれます。

 為政者が使うところの「人」ではなく、自然を前に「人」となるとき、そこには同じ生命である種としての謙虚さが生まれるような気がします。

 「個人」と「人」の境界線を誰かに手渡さないよう、自分の気持ちに正直に。

根本きこさん

根本きこ(ねもと・きこ)
 1974年生まれ。2003年逗子市に「coya」を開業。カフェブームの先駆けに。東日本大震災を機に2011年3月閉店し、沖縄県東村に夫と子ども2人で移住。現在は名護市に暮らす。2013年4月から琉球新報でコラム「やんばるからの手紙」を好評連載中。雑誌にエッセーを連載、著書「島りょうり 島くらし」「おとな時間」など多数ある。