琉球の都がおかれた首里と国際貿易港のあった那覇には、かつて綾門大道(あやじゅううふみち)というメインストリートがありました。
聞き慣れない通り名ですが、王国の運命を見続けた往還だったのです。
今回はその歴史街道をたどってみることにしましょう。
「マブヤー、マブヤー、ウーティキミソーリ」
おばあが呪文のように唱えた瞬間、眩いばかりの光がタケルの体に入り込みました。琉神マブヤーの誕生です。
前回の放送ではタケルが変身ポーズを思い出せず、一時はマジムン軍団に情けをかけてもらうなど、危なっかしい場面もありました。でもドラマは始まったばかり。今後の活躍に期待しましょう。
さて今回はタケルの上司・宮城課長が観光客を案内した史跡を訪ねます。
都を飾った二つの門
首里城のシンボル・守礼門には兄貴分がいたことをご存じですか?
名は中山門(ちゅうざんもん)といい、姿かたちは守礼門とうりふたつ。実はこの門こそ、首里城への第1の坊門だったのです。
意外に思われるかもしれませんが、守礼門の建立は中山門から100年経った頃とされ、ふたつの門を結ぶ東西五百メートルの道は綾門大道(あやじょううふみち)と呼ばれていました。「綾門」の綾とは「美しい」という意味で、中国からの冊封使(さっぽうし)は皆、那覇港から崇元寺を経由し、この美しい門をくぐって首里城へと入っていったのです。
ちなみに中山門は「下の綾門(あやじょう)」、守礼門は「上の綾門」と称されました。
では実際に綾門大通を歩いてみましょう。
守礼門を背に、西側の寒川(さむかわ)通りに進むと左手には世界遺産の玉御殿(たまうどぅん)があります。玉御殿とは16世紀前半に建立された第2尚氏王統の陵墓(りょうぼ)です。その隣には中国風の山門を構える臨済宗の古刹(こさつ)、安國寺が見えてきます。
右手には県立首里高校があり、時間帯によっては学生の姿も目立つ通りです。ここまでくるとお気づきになるかもしれませんが、王国時代の綾門大通とは現在の寒川通りのことなんですね。
そして、首里高校斜め前方あたりが中山門のあった場所です。「首里琉染」という染め物工房前には案内板があります。ぜひ立ち止まってご覧ください。
ペリーも歩いた道
往時の綾門大通はイシグーという琉球石灰岩の粉を特殊な方法で固め、敷きつめた白い道だったそうです。
「屋敷が見えないほどの高さの石垣が築かれ、内側には花園をもうけてある」
黒船で知られるペリー提督は綾門大通をそのように記しました。
19世紀半ばの都大路は堂々たる王族の屋敷や寺院、吹き上げる緑と突き抜けるような青空が広がっていたことでしょう。
もしその街並みが残っていたら……、首里は京都や鎌倉などに劣らぬ雅やかな佇まいを呈していたかもしれません。
綾門と称された中山門は王国が滅んだ後、老朽化を理由に競売にかけられました。取り壊された門はなんと風呂屋の薪になったと伝わっています。1908年(明治41年)のことでした。
文・仲村清司
写真・武安弘毅
ここが琉球王国きっての史跡だわけさぁ
知ってた?
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「古都随一の絶景スポット」
寒川通りの西側に建つ首里観音堂。本堂正面には「萬歳嶺」(ばんざいれい)という扁額(へんがく)が掲げられています。
萬歳嶺の由来は第2尚氏3代目国王・尚真(しょうしん)(1465~1527)がこの地に遊覧した際、王の治世と国の反映を祝う萬歳の声が沸き起こったことにちなんでいます。嶺とは高台という意味で、その名の通り、首里観音堂は萬歳嶺に建立された寺院なのです。
琉歌ではこの地が「萬歳嶺夕照」と詠われ、かつては首里八景のひとつとして親しまれていました。その景観を目の当たりにできるのが境内奥にある見晴台。遠く西には慶良間諸島が浮かび、東にはなだらかな末吉緑地、眼下の真っ白な街並みの向こうには紺碧の東シナ海が広がっています。