シーサーロードを探る マブイロードを歩くVol.10


シーサーロードを探る マブイロードを歩くVol.10
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 沖縄の人たちは大のマジナイ好き。その代表格がシーサーです。でも、モデルとなった獅子は沖縄には存在しません。

 今回はそのシーサーの由来の謎を追ってみました。

 

 沖縄のシンボルといえばシーサー。いかつい表情で屋根の上に鎮座している姿は、いかにもマジムン(魔物)を威圧しているように見えます。

 同じシーサーでも門柱に設置されたものはたいてい対になっていて、向かって右側の口を開いている方は福を招き入れ、口を閉じた左側が災難を除ける役目を担っているとされます。

 言葉にするとまさに「除災招福(じょさいしょうふく)」。シーサーは魔除けと開運を兼ねた置物なのです。とはいえ、沖縄がシーサーだらけの風景になったのは意外にも歴史が浅く明治以降のこと。1889年(明治22年)、それまで禁じられていた瓦葺きの家屋が庶民にも許されるようになってからです。
 

シーサーは屋根にはいなかった

町名の由来になった八重瀬岳。標高136メートル。毎年2月上旬に「やえせ桜まつり」が催される

 

 沖縄の旧家の屋根は台風対策として瓦を漆喰で補強するのが一般的でした。モチ大工(むちぜーく)とよばれる瓦職人は雇ってくれたお礼に、余った漆喰でシーサーを作り屋根に設置したのです。

 王朝時代は王家の墓陵や寺院、士族の墓などに獅子像が置かれ、やがて民間に普及すると、集落の入り口に村の守護神として設置されるようになりました。このようなシーサーを「村獅子」「村落獅子」といいますが、王家の史書『球陽』によると、1689年に東風平間切(こちんだまぎり)(現在の八重瀬町)の富盛(ともり)に作られたものが最古の村獅子といわれます。

 当時、村では火災が頻発し、風水師の助言を容(い)れて、火除けのために八重瀬岳へ向け、村獅子を置いたとされています。その面目躍如(めんもくやくじょ)たる働きがあったというべきか。以降、村では火事がぴたりと収まったと伝わっています。
 

 

世界に延びるシーサーロード

 ところでシーサーの起源ですが、なんと古代オリエントのライオンがルーツとされ、一説にエジプトのスフィンクスとする説も。

 どちらにしても発祥は古く、獅子=ライオンが魔除けになっている地域はヨーロッパから中東、東アジアまで広域にわたっています。

 シーサーロードはまさにユーラシア大陸全域に延びていたわけですが、中国にはシルクロードを経て伝来し、15世紀以降に琉球へ伝わったとされています。

 実は本土の神社にある狛犬(こまいぬ)もシーサーの親戚。狛犬は高麗犬とも書くことから、本土の場合は朝鮮半島を経由して入ったと考えられています。

 シーサーは伝来した地域ごとにオリジナル化していったわけですが、世界広しといえども沖縄ほどこの魔除けが活躍している地域はありません。
 

カンナイヤーチューを炸裂させる龍神ガナシー。今回もマジムンたちを粉砕!

 昨日の放送では、ヒメハブデービルが富盛の石彫大獅子のマブイストーンを奪い取りましたが、沖縄は集落の入り口や門柱、屋根、庭、玄関、さらにはお土産の置物やキーホルダーにもシーサーが使われる魔除け都市。

 ついでながら、T字路や三叉路の突き当たりにはさらに強力な「石敢當(いしがんとう)」という魔除けツールが睨みをきかしています。

 どうやら沖縄ではマジムンたちのつけ込む余地はなさそうですね。
 

文・仲村清司
写真・武安弘毅

ガナシーは頼りになる仲間だね

     

弾除けになった富盛の村獅子

沖縄戦の最中に米軍が撮影した富盛の村獅子(沖縄県平和祈念資料館提供)

 八重瀬町富盛の石彫大獅子はジリグスクと呼ばれる小高い丘に鎮座しています。高さは1.4メートル、長さは1.75メートル。現存する村獅子としては最大最古の石獅子です。

 現在は沖縄県の有形民俗文化財に指定されていますが、沖縄戦(1945年)を肌身で体験した村獅子としても知られています。

 富盛地区では八重瀬岳に陣地を構えた日本軍と米軍の間で激しい銃撃戦が展開されました。写真にはその戦闘の凄まじさを物語る跡が映し出されています。

 村獅子の表面のいたるところに見える白いい穴は弾痕です。奇しくも歴史の生き証人となった村獅子。その痕跡は現在も同じ位置に残されています。