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沖縄の国際通りを封鎖せよ!? 不発弾処理は年平均800件 過去には死亡事故も


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 玉城江梨子

「不発弾」や「不発弾処理」が〝日常〟になっている地域と言えば…そう!国内外からの観光客でにぎわう沖縄県です。年間の処理件数は平均795件にも及び、撤去が完了するには「少なくとも70年かかる」といわれています。その実態や影響を紹介します。

観光客のメッカ「国際通り」を週末に封鎖

今週土曜日(2018年1月20日)午前、沖縄の観光地、那覇市の国際通りが封鎖されます。理由は不発弾処理。ホテル建設現場で米国製50キロ爆弾1発が見つかったため、処理が行われます。

避難対象は約1000世帯で約2500人。避難対象区域にはおしゃれな店が建ち並ぶ浮島通りを始め、ホテルやお土産品店、コンビニなど約350の事業所があり、処理中はどの店も営業を停止します。
 

1月20日の不発弾処理に伴う避難対象地域

不発弾処理で国際通りが封鎖されるのは2004年、17年9月に続き3回目です。前回は1時間封鎖されました。

不発弾処理のため、住民や店舗関係者、観光客らが避難し閑散とする国際通り=2017年9月23日、那覇市松尾

国際通りと言えば、日本人だけでなく外国人観光客も大勢訪れる一大観光スポットです。前回は日本語が分からない外国人観光客が不発弾処理で避難対象地域になっているとは知らず、立ち入ってしまう例もあったそう。

そこで那覇市は今回、4カ国語対応の広報ページを作るなど、外国人への周知に力を入れています。当日は前回よりも通訳を多めに配置します。

国際通り入り口に設置されている立て看板。QRコードから4カ国語に対応した広報ページにアクセスできる

観光、葬儀にも影響!

「不発弾処理ってあまり聞いたことがない」と思っている沖縄以外の方、沖縄の新聞にはこんな記事がよく載っています。
 

地図がついているものの、小さな記事です。県外で「不発弾処理がある」となれば大きなニュースになりますが、沖縄ではさほど大きなニュースにはならないほど、不発弾処理は「よくあること」なのです。

不発弾はいろんな場所で見つかっています。首里城近くの首里高校運動場でも相次いで不発弾が発見され、首里城公園の一部が避難地域に入ったこともありました。その時ちょうど沖縄を訪れていた観光客からは「危険と紙一重の生活にびっくり」という声も聞かれました。首里高校隣りにはお寺があるのですが、このときにはそのお寺も避難対象地域となっていたため、葬儀と納骨を断っていました。

最近ではダイビングスポットになっている沈没船にも不発弾があることが確認されました。

ダイビングスポットの沈没船から不発弾 沖縄・古宇利島沖

年間795件も! 1日2個以上の計算に

沖縄では一体、年間何件の不発弾処理が実施されているのでしょうか?

沖縄県の2016年版消防防災年報によると、沖縄が日本に復帰した1972年から2016年までに処理された不発弾は3万6579件(陸上自衛隊処理分+海上自衛隊処理分)に上ります。平均すると1年間に795件、月平均66件もの不発弾処理が行われていることになります。2016年1年間でも612件の不発弾処理がありました。あまりの多さに沖縄在住者でも驚きです。

アジア・太平洋戦争末期には日本全土が空襲の被害を受けました。全国の不発弾処理数に占める沖縄の割合は1972年度は8・1%(全国198トン、沖縄16トン)でした。しかし、それ以降、沖縄の処理分が全国の過半数を占める状況が続き、最も沖縄の処理割合が高かった2007年度は62・7%に上りました。

なぜ沖縄にこんなに不発弾があるのかは、もちろん、1945年の沖縄戦です。アジア・太平洋戦争末期の沖縄戦で使用された弾薬は約20万トン。その5%が不発弾として残されたと推定されています。「鉄の暴風」と形容されるほど大量の弾が撃ち込まれた沖縄。当時の様子はこんなものでした。
 

「戦線の一帯は勿論ですが、首里に辿りつくまでの全道程が弾はほとんど雨霰(あられ)のように落ちるんです。それは夜昼の差別なく弾がこんなに落ちるものだから、田圃(たんぼ)も、畦道(あぜみち)もないくらいやられておるんです」(『沖縄県史 第9巻 各論編8 沖縄戦記録1』より。ルビは著者)

戦後73年。不発弾処理はずっと続いていますが、今なお約1985トンあまりの不発弾が埋まっていると言われています。完全に処理するには「70年かかる」との声もあります。

不発弾が最も発見されているのはココ

沖縄県の資料には市町村別の不発弾発見件数もまとめられています。ここからも戦争の激しかった地域が分かります。

1位は那覇市。那覇市首里には沖縄戦当時、日本軍の司令部が置かれていたため、激しい攻撃を受けました。DFSや県立博物館・美術館のある新都心地区は沖縄戦の激戦地でした。

2位は浦添市。ここには映画「ハクソー・リッジ」の舞台となった前田高地があります。日米が攻守を取り合う激しい戦闘があった場所で、住民の戦没率も高い地域です。

「ハクソー・リッジ」、住民も犠牲 映画が映さない沖縄戦 体験者は惨状を目撃

3位は糸満市。「平和の礎(いしじ)」があるここは日米最後の激戦が繰り広げられた場所です。
 

不発弾…犠牲者も

戦争が終わっても砲弾は沖縄の人びとの命を奪いました。『沖縄県史』によると、米軍占領下の1946年から1971年の爆発物による犠牲者は死者704人、負傷者1223人に上りました。

中でも戦後最大の不発弾爆発事故が1948年8月に伊江島で起きた事故です。

沖縄戦中に米軍が使わず放置された弾薬を海中に投棄しようと、波止場に係留していた米軍爆弾処理船LCTが爆発。死者102人、重傷21人、軽傷55人、家屋全壊8棟、半壊7棟という被害が出ました。

米軍弾薬処理船爆発事故から69年 伊江島で慰霊祭

復帰前の沖縄で、これだけ多くの人が爆発によって被害を受けたのは、不発弾情報が周知されていなかったことがあります。あちこちに不発弾が転がっており、子どもたちが手に取り遊ぶことも珍しいことではありませんでした。実際に小学校のグラウンドで爆発事故も起きたこともありました。

戦後の混乱、貧しさの中で沖縄の人たちは生活物資や住宅資材などの確保のために米軍の兵器の残骸を加工していました。そこで不発弾が爆発してしまうこともありました。
 

また、1950年代は「神武景気」「朝鮮戦争特需」によるスクラップブームで鉄くずが高騰しました。生活の足しにしようと家族総出で命がけのスクラップ拾いに出ていました。当時の新聞は1ページ特集を組んで、不発弾爆発事故の悲惨な写真7枚を掲載。次のように、警鐘を鳴らしています。

一体スクラップ地獄はいつまでつづくのだろうか。ここに惨たる爆発事故の現場写真を敢えて掲載した。爆発事故のいかにおそろしいものであるか、今後かかる惨事が再び起こらないよう、その警鐘にでもなれば幸いである。(1957年7月4日付「琉球新報」)

(画像は一部処理しています)

9年前にも大きな事故が

復帰後は不発弾処理を陸上自衛隊第101不発弾処理隊が担っています。事故の件数も減りましたが、それでも45年間で13件の爆発事故が起き、6人が亡くなっています。

中でも沖縄の人の脳裏に深く刻まれているのが、1974年3月に那覇市小禄で起きた事故です。下水道工事中に不発弾が爆発し、隣接する幼稚園の園児ら4人が死亡し、34人が重軽傷を負う痛ましい事故でした。

悲劇繰り返さないで 幼稚園の不発弾事故語る

2000年代に入っても事故は起きました。2009年1月、当時25歳の男性が糸満市内の歩道で水道管の掘削工事中、接触した不発弾が爆発し、顔面に重傷を負いました。事故現場の裏には特別養護老人ホームがあり、窓ガラス100枚以上が割れ、割れたガラス片で入所者1人が軽傷を負いました。

爆発の衝撃で割れた沖縄偕生園の窓ガラス=2009年1月14日、糸満市小波蔵

この事故の時に爆発音を聞いた高齢男性は「戦時中に爆弾が爆発する音を聞いたが、その音と同じ。まさか今の時代に爆弾でけがをする人がいるなんて」と話していました。

戦時中と同じ音が聞こえる―。これも沖縄の現実なのです。
 

絶対持ち帰っちゃダメ!!!大きな航空機事故につながる恐れも

「不発弾」と聞くと大きな爆弾を想像しますが、それだけじゃありません。「手りゅう弾」という手に持てる大きさのものもあります。見つけても絶対に持ち帰ってはいけません。

2009年には観光客が旅客機で手りゅう弾を那覇から石垣島まで運び、竹富島まで運んだ―という例もありました。このときは信管の一部と火薬が残っており、爆発の可能性もありました。爆発物の機内への持ち込みを禁じた航空法などに違反する可能性があると見て、観光客は警察の事情聴取を受けました。

爆発の可能性のある米国製手りゅう弾と確認した陸上自衛隊の不発弾処理隊=2009年3月24日、竹富町竹富
不発弾の機内持ち込みを禁止するチラシ=2016年12月、那覇空港

このほかにも那覇空港内の手荷物検査で手荷物から不発弾が見つかるケースがあり、警察は「大半が沖縄を訪れた記念の土産感覚で持ち込まれている」とみています。観光客のみなさん、沖縄で小さな弾を見つけても決して持ち帰ってはいけません!

不発弾からは沖縄戦の激しさだけでなく、今なお沖縄の人びとの生活が沖縄戦と深く結びついていること、「終わらない戦争」について考えさせられます。