「AIにお笑いはできない!」 ダチョウ倶楽部リーダー 肥後克広さん


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AIにお笑いはできない!

ダチョウ倶楽部リーダー   肥後克広さん

30年以上にわたりリアクション芸人として活躍し続けているお笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」リーダーの肥後克広さん。芸人を夢見て上京し、劇場での幕間コントを振り出しにさまざまな笑いに挑戦し続けてきた。故郷を離れて久しいが、沖縄への変わらない思いも。ダチョウ倶楽部のトレードマークでもある「ヤー!」のポーズを決めながら、自身の半生と沖縄のお笑いの展望についても語ってもらった。

 生まれは那覇市久茂地でした。引っ越した後、中学校は上山中。ハーバービューホテルの裏側に住んでいました。

 高校は那覇工業に通っていて。卒業する前に先生と進路相談があったんですよ。就職するのも嫌だし、進学といっても勉強するのも嫌だし、特にやりたいこともなかったので進路相談の前日くらいに、「どうしよう」と母親とケンカになって。

 母親には「運転免許は取っておけよ。そうすれば何とか食べていける!」と言われたんです。進路相談は母との三者面談で、先生に「進路は決まりましたか?」と聞かれて、「進学します! 天久の自動車学校に進学します」と言ったら、先生も「はぁ!?」って顔してましたけど、まあまあそうしなさいと言ってくれました。

 高校卒業して自動車学校に入ったけど、そこも1カ月ぐらいで卒業してしまって。それでどうしようかということで、神奈川県の武蔵小杉のいとこを訪ねて行って、1年くらいいましたかねぇ。白金のデザイン事務所に半年くらい働いていましたけど、あまり楽しいと思えなくて、一度沖縄に帰りました。18、19くらいの時ですね。

ダチョウ倶楽部の3人。右から上島竜兵さん、肥後克広さん、寺門ジモンさん(写真提供:太田プロ)
THE ALFEEさんのものまねをするダチョウ倶楽部。右端が肥後さん(写真提供:太田プロ)

だらだらと過ごし気がつけばリーダーに

2017年の夏にうるま市での番組ロケを終えて大泊ビーチに行った時のオフショット (写真提供:太田プロ)

 沖縄なら何とか仕事はできるけど、最後に何かやらないといけないと思って。お笑い芸人になる夢みたいなのを抱いて、再度、東京に行きました。

 今でこそ、吉本興業さんなどの学校がありますが、当時はだれかの弟子にならないと難しくて。萩本欽一さんが視聴率100%男と呼ばれていた時代。素人を使ってスターにする番組がたくさんあったので、萩本さんのところへ弟子入りを志願したものの、「君はスターになるから僕の所にいない方がいいよ」と言われて。渋谷や浅草などの劇場でお笑い芸人になろうとしました。

 渋谷の「道頓堀劇場」というストリップ劇場で、ショーの合間に芸人がコントもやっているという話を聞いて、そこに1人で入ることになったんです。ビートたけしさん(以下、たけしさん)もやっていたようなところでね。

 その劇場には、当時テレビで活躍していた「コント赤信号」の渡辺正行さん(以下、渡辺さん)がいて、渡辺さんが「今度、若い芸人を集めてお笑いライブをやるから、肥後も出たらどうか」と言うんです。それで出ることになったんだけど、だらっだらっと何もしていなかったら、ネタも何も決まってなくて。出番の数週間前、渡辺さんに「ネタどうなった」と聞かれて、何も決まっていないと言ったら怒られて(笑)。それで渡辺さんから紹介されたのが今のメンバー。

 1回限りのつもりで出たら思ったよりウケてしまって、「また出たら?」っていう話になったんですよ。それからだらだらと今に至るという感じですかね。上島と寺門は劇団出身で、2人でコンビを組んでいたんだけど、彼らも結局何もやっていなかったんだよね。そんなやつらが渡辺さんに怒られたから集まったっていうだけ(笑)。
 

肥後さんが生まれた那覇市久茂地界隈(2016年撮影)

30年ただただ笑いの現場に居続けて

 ダチョウ倶楽部で印象に残っている仕事は、「お笑いウルトラクイズ」ですかね。デビューは「ザ・テレビ演芸」という勝ち抜き番組で10週勝ち抜いてチャンピオンになってということなんですけどね。実際、チャンピオンと言っても、それからあまり伸びなくて。

 その後にたけしさんの「お笑いウルトラクイズ」でドンと火が付いたって感じです。すごい人気番組でしたから一大ブームになった。やはりそこがターニングポイントだったと思います。いまだにその時のことをよく言われますよ。今ではテレビではできない海に沈められる芸など、当時はよくやっていました。今の時代、あれを超えることはもうできないですからね、時代の流れとともにね。本当に、あの番組に出ることができてよかった。

 それから、リアクション芸人として呼ばれるようになり、「熱湯風呂」とか「アツアツおでん」とか、たけしさんがやっていたのを継承して、まねてやっていたんですよね。たけしさん抜きには語れないです。ある番組でたけしさんに「おでんや熱湯風呂をダチョウ倶楽部がきちんと芸にしてきた」と言ってもらえた時は、本当に嬉しかったですね。下手すりゃ「パクリやがって!」と言われるところなんですけどね(笑)。

 最近はモノマネ番組とかですかね。最初はウルトラマンのモノマネとかとんでもない代物ですよ。勝ち抜き戦の1回戦で、ダチョウ倶楽部とかピンクの電話とかが出てきて被りものしているだけ。ただ、さすがにウルトラマンで引っ張るのはつらくなってきて、僕が学生の頃やっていた名古屋章さんや、上島が西田敏行さんのモノマネをやったらなんとなく、また風が吹いてきた。

 でも、最終的に学生時代にやっていたネタも尽きた。どうしようかということで、単純にコントをやればいいのかなと思い、ボケ突っ込みというキャラ設定を俳優さんにしたのが当たって、今に至るという感じですね。
 30何年、いいことも悪いこともなく、ただただいるだけですよ。

「闘牛戦士ワイドー」の撮影現場で牛と戯れる (写真提供:太田プロ)
実家近くのソーキそば屋さんにて (写真提供:太田プロ)
子どものころ、母とよく買い物をして歩いた公設市場(写真提供:太田プロ)

遺影で熱湯風呂伝説のオジーになりたい

沖縄はいまは遊びに行くという感じですかね。あとは、琉球放送の「闘牛戦士ワイドー」に出てますよ。ぜひ見てくださいね。沖縄は離島に行くと昔ながらの風景も残っていますよね。もうちょっと島に渡る手順が楽になればいい。島に行くのも楽しいですよね。

 これからの100年というのはオーバーだけど100歳近くまで…いや80とか70くらいのおじいちゃんになっても今の3人でやっていけたら幸せかな。メンバーの中には死んでいる人がいるかもしれないけど、そしたら遺影を持って熱湯風呂に入るとかね(笑)。それで、笑ってくれたら最高ですよね、というのを3人で話したりしているんですよ。たぶん、その遺影が僕なんでしょうけど(笑)。だいたいお笑いは最初にリーダーが死んで、残ったメンバーがリーダーの悪口を言うといった感じですからね。

 いつかは沖縄に住みたいですね。海もきれいだし、ほっとする。3カ月ぐらい東京で仕事して、半年ぐらい沖縄に住んでという感じで生活できればいいですよね。

 100年後の沖縄は、また原点に戻ってくるんじゃないかな。100年後のお笑いといっても、AIみたいなのはお笑いができないんで! 昔ながらのカチャーシーやって語りをやって沖縄独特のお笑いになっているじゃないんですかね。沖縄独特の芸人が出てきて、うちなーぐちの芸人が出てきて、本土の人に分からない人も出てくるだろうね。また、沖縄の表現になってくると思いますよ。

 100年後の子孫に対しては、このまんまの流れで行ってほしいですね。孫たちが、その孫たちに「あんたたちには伝説のオジーがいた」と言われていたいですよね。安室ちゃんや具志堅さんやBEGINさんなんかと、ごちゃ混ぜになって語られていたらうれしいですよね。

 100年後、この紙面を孫たちが見たら「すごい!」と思ってくれるかな。誇りに思ってくれたらいいんだけど。扱いが小さかったら寂しいな(笑)。

肥後さんが懐かしむ「昔ながらの沖縄の風景」が残る離島

●肥後克広(ひご・かつひろ)
沖縄出身のお笑い芸人。ダチョウ倶楽部のリーダー。「ヤー」「どうぞどうぞ」「ムッシュムラムラ」などギャグを生み出し、体当たりのリアクション芸で活躍する。現在、琉球放送「闘牛戦士ワイド―」に出演中。