「検索できる時点で過去だ!」行動力あふれるツイッター・ジャパン社員 比嘉正也さんの挑戦


この記事を書いた人 仲程 路恵
Twitter Japan株式会社 比嘉正也さん

「今、世の中で起きていること」を知るツールとして、世界で3億3600万人、国内4500万人(2018年7月現在)が使っている「Twitter(ツイッター)」。今や公共交通機関の遅延や震災の際の情報共有にも有効活用されるなど、日本人の生活と密接に関わっているSNSだ。

そんな日本のツイッターを支える、Twitter Japan株式会社で働く一人のウチナーンチュがいる。彼の名は比嘉 正也(34)=千葉県在住、読谷村出身。学生時代から米国・シリコンバレーに憧れ続けた青年は、いかにして沖縄からITの世界に飛び込んだのか。彼の経験の数々には、夢を叶えるためのヒントがあふれていた。

◇聞き手・野添侑麻(琉球新報Style編集部、イベンター)

シリコンバレーに憧れて…

―さっそくですが、自己紹介をお願いします。

比嘉正也と申します。Twitter Japan株式会社で営業として働いております。1984年生まれの読谷村出身。大学生まではずっと沖縄で過ごしていました。琉球大学工学部を卒業した後は2年半ほど、大分県にある半導体工場でエンジニアとして働いていました。

―今はIT企業で働く比嘉さんのファーストキャリアは、エンジニアだったんですね!

「いつかは沖縄に帰り、沖縄に貢献したい」という思いで県外へ働きに出たんですが、家と工場を往復するだけの生活の中で、「このままだと一生沖縄に帰ることなんてできない」と思って、今後の人生を見つめ直すことにしたんです。

当時、梅田望夫さんの著書『ウェブ時代をゆく―いかに働き、いかに学ぶか』(筑摩書房)を愛読していて、その中で紹介されていたシリコンバレーで働く経営者たちの「時間と場所に捉われない働き方」に感化されていました。そんなシリコンバレーに対する思いを日々ブログでつらつらと書いていたら、ブログを通して知り合った方から「現地に行こう」とお誘いを頂き、十数人のグループでシリコンバレーに行くことになったんです。

その時にGoogle本社を訪れたんですが、そこで働く人たちが自分らしく、自由に、エネルギーに満ちあふれながら働いている姿を見て、「こんな働き方があるのか」と衝撃を受けて、転職することを決意したんです。

 

 

持ち前の行動力で道を拓き、IT業界へ!

しかし、転職活動より先に自分が会いたい人たちに会って、その世界で働く人たちの話を聞こうと思ったんです。ブログなどを駆使して手当たり次第に会いたい人に連絡して、月に1回東京や大阪などへ出かけていました。ありがたいことに、たくさんの人が僕に会ってくれました。その中でも僕の人生を変えてくれた印象的な方が2人います。

まず1人目は『ウェブ時代をゆく―いかに働き、いかに学ぶか』の作中にも出てくるKさんという方。沖縄にルーツを持つ移民の方で、いつも僕が迷ったときにヒントを与えてくれて導いてくれる方ですね。初めて会ったときから信頼できる雰囲気を持っていて、沖縄の血が流れている者同士、心を許してくれた面もあったのかもしれません(笑)。

そうやっていろんな人に会ってはいたのですが、肝心の転職にはなかなか繋がらなかったんです。そんなある日、とあるイベントに参加する機会がありました。そこで人生を変えてくれた2人目と出会ったんです。

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのあったIT企業の執行役員だったTさんという方で、イベントでの話がとても面白かったんです。イベント後の懇親会で話し掛けたかったんですが、その方の周りは終始すごい人だかりで…。なので、彼がトイレにいった際に話し掛ける作戦に切り替えました(笑)。

トイレの前で「やる気はあるので御社で働かせてください」って直訴したんです。するとその後、TwitterのDMでやり取りしてくださり、面接の場を用意してくれて、そのIT企業で働くことが決まったんです。その方とトイレで話した2カ月後には上司と部下の関係になっていて…人生は何が起こるかわからないですよね(笑)。

―話を伺っていると、比嘉さんってものすごい行動力の持ち主ですね。IT企業への転職が決まったのも、その行動力でつかみ取ったようなものじゃないですか。

Tさんも僕が転職先で活躍できるっていう根拠はなかったけど、熱量を買ってくれたんだと思います。

―IT企業ではどのような仕事を担当されたんですか?

会社にはWebディレクターとして入社しました。そのIT企業は技術力のある会社だったので、もちろんディレクターの方は優秀な方ばっかりなんですよ。かたや僕はディレクションの素人。最初の3カ月は結果なんて出せず、ほとんど会社に貢献できませんでした。

入社して半年経ったときにセールスチームに移りました。今も続いている営業の経験はそこがスタートとなります。両極端の職種を経験してみて、営業職は自分に合っていると思いました。

得意の英語力をいかして勝負に

憧れだった企業で、技術職と営業職という両極端の仕事を経験し、少しずつ『自分にできること』を見つけていかれた比嘉さん。そこからTwitter Japanへの転職は、どのような経緯があったのですか?

2011年の12月ごろに「Twitter Japanの営業部門のメンバー募集」のツイートを見かけたのがきっかけです。何気なく詳細を見てみると、応募要項は全て英語で書かれていたんです。もちろん提出書類も英語のみの受付。アメリカの会社だから当然なんですけど、そのツイートへは「応募したかったけど英語じゃ無理だ!」っていうようなコメントが多く寄せられていたんですね。それを見て「俺ならいけるかもしれない」っていう勝機を感じたんです。

何故なら僕は小さい頃から、祖母の影響でずっと英語を勉強していたんです。彼女は英語が話せて、物心つくころから教えてもらっていました。小さい頃はそこまで真剣に取り組んでいたわけではないんですが、社会人になってからも英語の勉強はずっと続けていたんです。申し込んだ後、何度か面接を重ね、Twitter Japanへの入社が決まりました。

―そこでも、熱量の強さで勝ち取った内定だったんですね…!

自分の強みを探していた時に、小さい時から唯一こつこつ勉強していた英語を仕事に活かせて、役に立てるかもしれないって思ったのでエントリーしたんですよ。

6年以上この会社で生き残れているのは上司のおかげですね。壁にぶつかったときに「アドバイスください!」と質問しても、いつも「サバイブ(生き残って)してください」「大局観を持ってください」というシンプルな回答しか返してくれない人なんですけどね(笑)。

日本はTwitter大国! 営業として売上げに貢献も

―先輩の存在もあり、イキイキと自身の成長に繋がっているということですね! Twitter Japanで比嘉さんはどのような仕事を担当されているのですか?

僕はTwitter広告の営業をしています。営業するにあたり広告代理店さんの力を借りて一緒に動くことが多いですね。担当の方にTwitterの仕組みを理解してもらって、企業向けに販売してもらっています。

―そんな比嘉さんの1日のスケジュールを教えてください。

息子を幼稚園に送るところから、朝は始まります。午前中はメールのやり取りや、社内での打ち合わせがメイン。午後はお客さんのところへ伺って打ち合わせをします。同じビル内に取引先の会社が入っていることが多いので、エレベーターで上がり下がりをしながら、30分程度の打ち合わせを何本か重ねていきます。5時にオフィスに戻ってきて残った仕事をこなし、7時には家に帰ります。子どもたちをお風呂に入れているときが、一番心が落ち着きますね。

Twitter社の様子

―なるほど! Twitter社員さんの仕事内容って全然見えないので知れて嬉しいです。てっきりエンジニアさんばかりだと思っていました…(笑)。営業部門もあるんですね。

エンジニア部門はサンフランシスコの本社がメインです。日本は世界規模で見てもTwitter 利用者が多い国で、売り上げもアメリカに次いで2位なんですよ。Twitter全体の売り上げの18%を日本が占めています。日本での広告売り上げがほとんどない時期から働いている身としては、とても感慨深いですね。ここまで成長したかっていう感動が…(笑)。

気づけば社内では上から数えたほうが早い古株になっちゃいました(笑)。Twitter Japanの成長と共にここまでこられたことは本当に嬉しいですね。

「発想の転換」で成長につなげる!

―入社当初なかなか活躍できなかったとも伺いましたが、そんな経験を比嘉さんはどのように自分の力に変えていったのでしょうか。

僕が心がけていたのは「みんなが当たり前にやることを、違った視点で取り組んでみる」ということです。そうすると、たとえ失敗談になっても後々みんな興味を持って話を聞いてくれると思って。

例えば名刺並べや資料整理は、あまり魅力的な仕事ではないという方もいます。ただ、資料整理だって終わったら、余ったファイルをもらえますしね(笑)。上司の上司だった人が作った資料やデータをもらえるなんて、今後絶対役に立つし、自分に足りなかったデータを補える武器をタダでもらえるってことじゃないですか。だから当時はこの状況を将来の笑い話や、自分の武器にできるように必死にやろうっていう感覚で取り組んでいたかもしれないですね。

多様性に満ちた人々と働くメリット

―比嘉さんが働いて感じるTwitter Japanの魅力はどんなところですか?

さまざまなバックグラウンドを持つ、多様性に満ちた人たちと一緒に仕事ができることだと思います。この環境を活かして、いかに学ぶかっていうことが最大の魅力ですね。年齢やバックグラウンドで人を区別することなく、多様性に満ちた人たちの中でコミュニケーションを取りながら物事をつくり上げていくのが、Twitter Japanの魅力の一つかもしれません。

壁にはTwitterのモットーでもある”職場を愛する”という意味合いのアートが飾られている

社員ならではのTwitterの使い方 英語学習にもオススメ

―なるほど。多様性に満ちたこれからの社会でどう生きていくかというヒントが詰まった考えですね。話は変わって、比嘉さんは普段どのようにTwitterを使っていますか?

興味がある人や知り合いをフォローするなど、案外普通の使い方をしていますよ(笑)。変わった使い方といえば、自分用のあらゆる記録をつけています。英語の勉強だったり、筋トレだったり、自分だけのタグを作って自分に返信を飛ばす形で成長過程が分かるように記録しています。

毎朝通勤時間に英語のニュースを見て、ニュース内に出てくる英単語を5分間だけ勉強しているんです。自分に返信を飛ばす形で、その日勉強した単語をツイートして、Twitterを単語帳のように使っています。今まで自分がやってきた単語も同時に確認することができるので、オススメです。

 

まずは沖縄県民が沖縄の問題を知ること

―その使い方、ものすごく良いですね! 真似させていただきます! ここからは比嘉さんの沖縄に対する思いを聞かせてください。県外から沖縄の現状を見て感じることはありますか?

沖縄の人たちは、もっと自分たちの立ち位置に興味を持ったほうがいいと思います。というのも、僕も周りから「地元が沖縄って最高だね」と言われることが多いんです。これは誇りに思うべきことで、とても良いことだと思うんです。しかし、一方で数多くの問題も顕在化していっています。県民だからこそ、そういった負の側面に関しても把握していなきゃいけないなと感じています。

出会った人に沖縄出身というと興味をもってくれて、いろいろ質問されるんです。そんな場合って、答える側には責任があると思っていて沖縄の良いところも悪いところも把握していなきゃと思うんです。人に説明するようになって気づくようになりましたね。

それこそ琉球新報のニュースは朝の通勤時間に必ず目を通します(笑)。その諸問題に対して自分ができることは多くはないんですけど、まずは知ること。沖縄を知って説明できることが大事だと思います。

 

座右の銘は「検索できる時点で過去だ!」

―比嘉さんも20代の頃にシリコンバレーに憧れて、自分なりに考えて行動して今の生活があると思います。その当時の自分と同じ年ごろの沖縄の学生たちにアドバイスを頂いてもよろしいでしょうか。

僕の経験を一般化しちゃいけないとは思いますが…、僕から伝えられることは、「動かないと失敗も成功もできない」ということです。まず自ら動いて経験をしないと、経験値は変わりません。動くためには自分のやりたいことをしっかりと把握して言葉で説明できるようにならないと、実現までの最短距離をいけないし、人からヒントを得ることもできないと思うんです。

そのための思考力や言語化を手に入れるためには、教養が必要になりますし、ちゃんと学ぶことに対して、意義を教えてくれる人の存在は大切かもしれません。

僕はよく弟に「検索できる時点で過去だ」と言っています。自分がチャレンジして経験したことって、その人しか喋れないことだし、特に失敗談だったらいろんな人がその話を聞きたいから、手足を動かして何でも経験したほうがいい。何でも検索できる時代だからこそ、自分も人に検索されるようなことを率先して経験する、もしくは検索されないこともやってみる、っていうことを家族には伝えていますね。

また今はSNSなどを通して他人と距離が近くなっているからこそ、人と比較してしまう瞬間が増えているように感じます。でも、自分が何をしたいのかっていう柱の部分をしっかり持っていれば、原点に立ち返ることができる。祖母によく「自分は何がしたいのか考えなさい」って言われていた経験もあって、意識していることでもあるのですが。

先人に学び、今を生き切ること

―比嘉さんにとっておばあさまは、生きていくうえでの大切なことを教えてくれる人だったんですね。

僕らのおじぃおばぁ世代って、0から1にする時代を生きてきた人じゃないですか。人との交渉なんて当たり前だし、ちょっとでも弱みをみせると大切な物を奪われかねない。でも、そこで人間性を失わずに規範を持って生きていくことって、相当な鍛錬がないとできなかったと思うんですよ。僕はその世代の人たちの背中を見てきたから、同じ部分でも負けたくないんですよ。僕らもきっとできるはずですよね。

―最後に、比嘉さんの将来の夢を教えてください。

夢は、沖縄に貢献することです。貢献するために僕ができることは、まずこの会社でしっかり生き切ることだと思います。ここでしかできないこともたくさんあるので、せっかくの機会を活かして経験して、まずは自分の子どもたちにきちんと伝えていくこと。周りに影響を与えていくことが、沖縄の貢献につながることができると感じています。

聞き手・野添侑麻(のぞえ・ゆうま)

琉球新報Style編集部。音楽と湯の町別府と川崎フロンターレを愛する92年生。18歳からロックフェス企画制作を始め、今は沖縄にて音楽と関わる日々。大好きなカルチャーを作っている人たちを発信できるきっかけになれるよう日々模索中。沖縄市比屋根出身。