あの有名歌人と沖縄とのつながりを探る【島ネタCHOSA班】


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ある日、レキオ編集室に「国民的歌人・石川啄木の歌碑が那覇市内にあることをご存知ですか?」というメールが届きました。岩手県出身の啄木の歌碑がなぜ沖縄に? 調査員は碑がある場所へと向かいました。

石川啄木(1886~1912)といえば、あふれる才能に恵まれながらも窮乏生活を送り、26歳で結核により短い生涯を閉じた明治末期の歌人ですよね。「はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし) 楽にならざり じっと手を見る」という短歌を記憶している人も多いのでは。

しかし、啄木の歌碑が那覇市内にあるなんて知りませんでした。それにしても、岩手県出身で、沖縄に来たことのない啄木の碑が、なぜ沖縄にあるのでしょうか。

啄木と沖縄の接点は?

歌碑があるのは、那覇市西にある真宗大谷派の寺院、真教寺。啄木の歌碑は、門をくぐってすぐ左手にありました。

刻まれているのは、「新しき明日の来るを信ずという自分の言葉に嘘はなけれど―」という短歌。迷いと決意、不安と希望が入り混じったような歌には、切なくも心に響く感情が感じられます。

碑の裏を見ると、「一九七七年四月建之 山城正忠 沖縄啄木同好会」とありました。山城正忠氏という人物が、碑の設立者なのでしょうか。

調べてみると、山城正忠氏(1884~1949)は、大正・昭和期の沖縄を代表する歌人。啄木と交流があったことが知られ、啄木の日記にも「山城君は肥って達磨の様である」などと記されています。

二人は明治末の東京で出会いましたが、啄木は東北、正忠氏は沖縄と、共に地方出身者だったことが互いの心を開かせたようで、正忠氏は「かくて段々相親しくなって君(啄木)が本郷の下宿にいるときには度々訪れて君の気焔にあてられたものだ」と啄木の家をしばしば訪ね語らう間柄だったと述懐しています。

那覇市西の真教寺境内に建つ啄木の歌碑。裏側には、啄木との親交があり、碑の建立を計画した沖縄の代表的歌人・山城正忠氏の名が刻まれています

正忠氏はその後沖縄に戻り、沖縄歌壇の育成者となりますが、1949年に他界しています。碑が建ったのはそれから後の77年ですが、当時の新聞記事によれば、事情は次の通り。

正忠氏は、啄木の歌碑第一号が建てられた1923年ごろから那覇市内への歌碑建立の計画を進めていたそうですが、費用の問題で頓挫。それから約半世紀後、正忠氏を師とあおぐ国吉真哲氏(故人)をはじめ、沖縄啄木同好会有志らが建立を実現させた、とのこと。50年以上の時を越えて、師の思いを受け継いだというわけですね。

啄木忌も開催

真教寺。歌碑は門を入って左側にあります

ことしの4月13日(啄木の命日)には、碑のある真教寺境内で、啄木忌・茶話会が開かれ、啄木と歌碑の建立者である正忠氏、真哲氏をしのびました。あいにくの小雨にもかかわらず、会場には55人の啄木ファンが集まり、沖縄県内での啄木の人気の高さがうかがえました。

会を主催したのは、沖縄啄木同好会。会長の屋部公子さんは、「42年間、真教寺さんに歌碑を守り通していただき、ありがたく思っています」と挨拶。参加者がそれぞれ啄木への思いを語った会の中では、碑に刻まれた「新しき明日」の歌に、沖縄の現状を重ねて共感を覚えるという声や、啄木の出身地である岩手県の県議会が辺野古基地問題に関する意見書を議決したことへの共感も聞かれました。

現在の真教寺住職を務める田原大興さんは、「月に1、2人ぐらい、県内外から碑を見に来られる方がいる。碑を見学したい人はどなたでも歓迎です。お友達なども誘って、自由に訪ねてください」と話します。

啄木と沖縄の意外なつながりを知った調査員。歌にこめられた思いをかみしめながら、帰路についたのでした。

参考文献
・『資料集 啄木と沖縄』沖縄啄木同好会・編 1982年
・『啄木と沖縄』大西照雄・著 2000年

(2019年5月216日 週刊レキオ掲載)