音で持ち主を聞き分けた !? 戦後、沖縄を走っていた「パタパター」【島ネタCHOSA班】


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戦後の最初のタクシーは三輪車だったと聞きました。いったいどんなタクシーだったのでしょうか?

(宜野湾市 Sさん)

8月5日は「タクシーの日」だったので、旬な話題ですね。さて、戦後の三輪車タクシーとはいったいどんなものだったのか? それでは調査開始です!

庶民の足として

沖縄県タクシー協会に尋ねると、金武町にある金武タクシーの社長なら長年、タクシー業界にいるのでいろいろ知っているかもしれないとのこと。さっそく、同社を訪ねました。

「三輪車は戦後、最初に日本製のトラックが沖縄に輸入されたときに一緒に入ってきたんですよ」と教えてくれたのは社長の與那城隆さん(90)。

三輪車タクシーは宜野湾市普天間あたりでよく見かけたものの乗ったことはなく、あまり詳しくはないとのこと。しかし、戦後の米軍関連のタクシー事情には詳しいようなので、次の機会にお話を聞いてみたいですね。

では、三輪車タクシーについてよく知っている人はどこに…。そういえば以前「戦後の交通」について記事を書いてほしいとレキオ編集室に電話をかけてきた人がいます。この人なら何か知っているかもしれません。念のためメモしていた電話番号にかけてみると、三輪車タクシーの写真を持っているというではありませんか。

伊敷正俊さん

この人は糸満市在住の伊敷正俊さん(84)。お宅におじゃまして見せていただいた写真には、三輪車タクシーと凛々しい顔の伊敷さんが写っています!

伊敷さんは1950年に三和(みわ)中学校を卒業し、51~52年ごろ三輪車を購入して三和タクシーの運転手として働き始めました。三和タクシーは旧三和村出身者が集まり14~15台で始めた会社です。伊敷さんの記憶では47~48年には走っていたはずだといいます。

「当時は糸満から南部方面へはバスが走っていなかったので三輪車タクシーが走っていました。米須という大きな部落に中継地みたいなところがあって三輪車タクシーが4、5台待機していたんです。ここでお客さんを乗せて、さらに各部落でもお客さんを拾いながら糸満まで行きます。そこで買い物など用事を済ませたお客さんは、今度はそこに並んで待機しているタクシーに乗って帰ります」

町から離れた場所に住む人々にとっては、とても便利だったでしょうね。

あこがれの職業

三輪車はエンジン音がパタパタと鳴るので「パタパター」と呼ばれていました。三輪車ごとに音が違うので、運転手の家族が家の中にいてもその音を聞いたら、「あれはうちの息子の三輪車だ」と分かるくらいだそうです。

伊敷さんにとって思い出深い三輪車「みずしま」。ハンドルはT字型。伊敷さんの兄も三輪車タクシーの運転手だった (写真提供:伊敷正俊さん)

伊敷さんの三輪車は三菱重工業水島製作所の「みずしま」。8人乗りでしたが、馬力がなく坂道で進まなくなることもあり「降りて押してください」と客にお願いすることもあったとか。

庶民の足として需要があり、三輪車タクシーは陸運業の「花形」だといわれたりもしました。伊敷さんは「あこがれの運転手になったときはうれしかった」と笑顔を見せます。三輪車タクシーの運転手として働いたのは2~3年ですが「楽しい思い出がたくさんある」そうです。

その後、伊敷さんは四輪のタクシーや卸問屋などの仕事を経て66年に糸満町役場(71年市制施行)に入り、4首長の運転手を定年まで務めました。

最後に「三輪車について話せる人はいなくなる。三和タクシーにいた人も今2~3人しか生きていないから」と胸にある思いを話してくれました。

◇ ◇ ◇

「沖縄県タクシー協会創立四十周年記念誌」によると、「57年に小型タクシーが登場し、戦後タクシーのスターターを務めた三輪車タクシーは59年に姿を消した」とあります。今回の調査で、三輪車タクシーについて少しでも興味を持ってもらえたらうれしいと思った調査員なのでした。

(2019年8月8日 週刊レキオ掲載)