「勇気を出せば世界が変わる」悩めるあなたへ LGBT運動先駆者の南定四郎さんが歩んできた人生とは…

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LGBTなど性的マイノリティー運動の先駆者で、ピンクドット沖縄の名誉顧問を務める南定四郎さん=8月23日、うるま市


LGBTなど性的マイノリティー界の「レジェンド」が、ついのすみかに選んだのは沖縄だった。
南定四郎さん、ゲイ、87歳。「ピンクドット沖縄」の名誉顧問を務める南さんに、自身の半生や性的マイノリティーの現状などを聞いた。

(真崎裕史・琉球新報南部報道部)



言葉も交わせなかった初恋


満州事変が始まり、日本が「15年戦争」に突入した1931年、南さんは樺太で生まれた。初恋は中学1年の時だった。
「小さい頃から女性に全く関心が無かった。初恋は同級生の男の子。彼がトイレに入った時、今から小便するかと思うと、胸がどきどきした。何とかして彼と話してみたかったけど、ついに口も聞かずに終わってしまった」

日本は戦争に負け、樺太はロシア領となった。南さんは秋田県に引き揚げ、高校卒業後、秋田地方検察庁に就職した。しかし書店で偶然手にした雑誌が、その後の人生を変えることになる。
「当時流行していたエロ雑誌で、『同性愛者がたむろする秘密の館』と題するルポルタージュが載っていた。同性に対する嫉妬が描かれていて『これは自分のことだ』と、むさぼるように読んだ。初めて自分を客観視して、自分は同性愛者なのだと気付いた」。
20歳の時だった。


「その頃はまだ、同性愛者=変態と言われ、差別の対象だった。周囲に悟られるのではないか、と常に緊張し、陰に隠れるように暮らしていた。雑誌を読んで『東京に行けば同性愛者に会える』と思い、是が非でも東京に出たいとの思いが強くなった」



上京そして創刊

21歳で上京。開局したばかりのニッポン放送でアルバイトをしながら、「イプセン」などのゲイバーに入り浸った。その後、職場を転々とし、40歳を過ぎた1974年、ゲイの月刊誌『アドン』を創刊。発行人と編集長を務めた。

「初版3万部が1カ月で完売。編集スタッフは最初、自分と2人で、毎号220ページ。休む暇はなかった。海外のゲイ事情を翻訳して紹介したほか、読者の手記を載せた。当時はまだゲイの出会いが限られていた。文通欄を10ページ設けると、毎月、300人ぐらいから投稿があった。創刊当初はすごくもうかったけど、途中からじり貧。インターネットが普及し始めた1996年、65歳の誕生日を最後に廃刊した」

創刊から10年後の1984年、再び南さんの人生を変える出会いがあった。
「IGA(国際ゲイ協会、現在は国際レズビアン・ゲイ協会=ILGA)の情報局長が、日本支部を作らないか、とスウェーデンからやってきた。私は『日本でデモをやったら大変なことになる』と一度は断った。彼は1週間、うちに泊まって話をした。スウェーデンでも家を借りて食事を作る活動から始めた、と聞いて、自分でもできると思った」
「四谷三栄町にアパートを借りて、84年にIGA日本支部を設立した。私は事務局長になり、ゲイの電話相談を始めた。それまでは権利要求などせず、『男好きなら男好きでいい。自然体で生きていこう』と思っていた。それがIGAの国際会議に参加するうちに、社会運動に目覚めた」

厚生省(当時)が85年、エイズ患者第1号を発表した。当時は治療薬が無く、エイズは「死の病」と恐れられた。南さんらの電話相談も、エイズに関する内容が急増した。
「自分もかかったんじゃないか、とか。当時は『ゲイと言ったらエイズ』という時代で、生きづらかった。ゲイホットラインをAIDSホットラインに改称して、街頭で『コンドームを使いましょう』と啓発活動も行った。衆院議員候補にエイズ政策のアンケートも実施した」

自信をくれた渋谷の景色

そして94年8月、性的マイノリティーによる日本初のパレード「第1回レズビアン&ゲイパレード」が東京で開催された。南さんは実行委員長を務め、「今ここにいる!! 祝カミングアウト」と書かれた横断幕を掲げて歩いた。「都庁前の出発点に集まったのは50人くらいだった。歩いていると、沿道から『頑張れー』と声が上がって、次々にパレードに加わってきた。渋谷のゴール地点に着いた時には300人ほどに増えていた。その光景を見たら、体が震えて涙が出てきた」

「それまで同性愛者は隠れて生きていた。でも見てください、ここにいるよ、と。あなたの隣にもいるんだよ、と。パレードを通して自分たちの可能性を感じ、自信が付いた」

その後、南さんは96年の第3回パレードで身を引いた。しかし今や、LGBT当事者らのパレードは全国に広がり、今年4月の「東京レインボープライド」では過去最多の約1万1千人が歩いた。南さんは2011年、温暖な気候を求め、40年余り連れ添うパートナーと一緒に沖縄に移住した。17年から沖縄市社会福祉協議会の電話相談員を務め、月1回2時間、受話器を通して性的マイノリティーの声に耳を傾ける。


小さなコミュニティーで悩む人々



「30代後半から40代の人の相談が多い。『初めて他人に話します』と、泣きながら自分史を語る人もいる。沖縄はコミュニティーが小さく密接だから、常に監視されていると感じ、緊張を強いられている当事者もいる」


南さんが発行するLGBT応援マガジン「空とぶ船」

2時間では足りない、時間を気にせず直接相談できる場をつくりたい―。そんな思いから、今年1月、宜野湾市にカフェ「空とぶ船」を開いた。「いくつもの新たな出会いがあった。運転資金が尽きて8月に閉店したが、7人の中心メンバーができた。7組の結び目が大きな力になる」

カフェと同名で、日本初の「LGBT応援マガジン」と銘打った雑誌も今年4月、創刊した。編集長を務める傍ら、台湾やフィリピン、韓国などアジア地域の性的マイノリティーのネットワークづくりを模索する。米寿を前にして、夢はどんどん広がる。
「LGBT支援を打ち出す企業も増え、同性愛者=変態という声も、さすがに聞かなくなった。ただ、LGBTなどマイノリティーが置かれた環境は、根本的には変わっていない。私は、ただ黙って死ぬのを待つのは嫌だ」

「大きなビジョンは必要ない。個人の変化がつながり、輪になって、社会が変わっていく。LGBTの当事者には、勇気ある一歩を踏み出してほしい。ピンクドットに少しでも行ってみようと思ったら、来てほしい。一歩を踏み出すと、世界はがらっと変わる。私の人生がそれを証明している」



2018年のピンクドット沖縄=2018年9月、那覇市牧志のてんぶす那覇前

◆性的少数者(LGBT)やすべての人が生きやすい社会を目指すイベント「ピンクドット沖縄2019」9月1日(日)午前11時~午後5時、那覇市泉崎の琉球新報社エントランス広場で開かれる。
7回目の今年は台湾で同性婚を実現させた活動家の呂欣潔(ジェニファー・ルー)さんが参加する特別トークセッションのほか、音楽ライブが行われる。イベントを前に関連記事を順次公開していきます。



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