乾燥~アク抜きに数ヶ月も??手間暇かけたソテツの味噌【島ネタCHOSA班】


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

おばあちゃんが昔はソテツを食べていたと言っていましたが、今でも食べられていますか?

(中学1年/なつこさん)

今回も面白い投稿が舞い込んできましたね。さっそく、実際にソテツを食べたことがある人に聞いてみましょう。

(左から)テリー重田さん、記原功さん

取材に応じてくれたのは、徳之島出身で沖縄在住のプロJAZZサックス奏者のテリー重田さん(79)と、「沖縄徳之島郷友会」会長の記原功さん(67)。

「ソテツは今は観賞用だけど、昔は生活の必需品だった。実を食べるために植えていた。島のどこでもソテツが見れたなぁ」(記原さん)、「小学校のころまではソテツの粉を混ぜたみそを食べて育ったよね」(2人)。テリーさんは「沖縄に来てから、はじめてみそが売られているのを見ました」と笑顔。

蔡温がソテツを普及!?

今度は、実際にソテツが食べられるところを探します。本島北部を中心に聞き込みをすると、「自分の把握している中ではわからない」、「ソテツは昔の話では?」、と何だかツレない。ここは、調査員根性発揮です。図書館で沖縄の農作物に関する資料を探してみると…発見!

粟国村では、ソテツが村花木として制定されていて、葉は燃料、実や芯は食材、雄花は肥料として使われてきており、村史にも「蔡温は農務手帳を公布(一七三四年)、ソテツの実と茎の肉質部からデンプンを製する方法を指導し、飢饉に備えて日頃から植付を怠らぬよう指示した」との記述が。ソテツは、私たちがいま自然災害に備えて備蓄している水や缶詰と同じような存在だったのかも。

続いて「ソテツの実採集は、昭和十六年以前には三区長(西・東・浜)が秘密裡にソテツ採集日をきめ、その決定した未明にドラ鐘をならして村民にしらす。村民はかねて準備した採集用具をもって採集に行く。児童生徒も二,三日は増産休として家庭の手伝いをした。ソテツ最終日は昭和十六年より、毎年旧九月五日を一斉収穫の日ときめて現在までつづいている」とも。

こんなにもソテツと粟国の人々は密着していたんだなぁ。もっと話を聞いてみたい!

ソテツの雌花と実

天敵との戦い

那覇・泊港から船で約2時間揺られ、粟国村に到着。あたりを見渡すと、あちこちにソテツが自生していて、村の売店ではソテツのみそを販売。住人に聞いてみると、ソテツを使ったみそが、家庭でも普通に食べられているそう。

「そてつみそ」を製造販売する「粟国製菓所」の赤嶺真知子さんは、「いま粟国島で本格的にソテツのみそを作っているのは2カ所。うちは、私で3代目」と、丁寧に畑や工場を案内し、ソテツの実を割る工程まで体験させてくれました。

「ソテツの実は、あく抜きが大変。採った実を2週間~3カ月かけて芯まで乾燥させ、1週間かけてあく抜き。朝晩水を変えます。それから、発酵するまで箱の中で2、3日置き、ぬめりを取って乾燥させ、粉末機で粉にする。みそは、大豆と粟国の塩を合わせて作りますが、みそかめに入れて半年以上かけて熟成させないとカビします。ソテツの葉や実には害虫のヤモリやチョウが来るし、みその原料の豆は害虫にやられて、なかなか(苦笑)」と赤嶺さん。「粟国の飛行機が復活してくれたら、本島からいろんなものが運べる。早く復活しないかなぁ」と目を輝かせます。

粟国製菓所の「そてつみそ」
村民牧場のソテツ群=粟国村

今回の調査では、ソテツが「中生代の約2億万年前にもっとも栄えていた植物で、中生代を『蘇鉄植物時代』ともいう」ことも判明。今後アナタが生きるすべを迷ったときは、大仙人のソテツに聞く!?

取材協力・宜野座村立博物館
宜野座村字宜野座232 (マップはこちら
☎ 098(968)4378
参考文献・『粟国村誌』(粟国村・発行)、『蘇鉄の全て』(榮喜久元・著)

(2019年9月12日 週刊レキオ掲載)