「この地には自分が経験してきた以上の苦しみを背負っている人たちがたくさんいる。でもそれは、他人ごとじゃない」
沖縄出身の5人組バンド「ORANGE RANGE(オレンジレンジ)」のベーシスト、YOHさん。高校生の時に、地元の幼馴染と一緒にORANGE RANGEを結成。2003年にはメジャーデビューを果たし、セカンドアルバム「musiQ」は260万枚を超える大ヒットを記録。しかし人気絶頂の最中、盛り上がる周囲のスピードについていけず、鬱に近い状態に。
そんな時に東日本大震災が発生した。以来7年余、継続して復興支援のボランティアを続けている。沖縄から被災地に通い続けているのはなぜか、活動を通して今、何を感じているのか-。胸の内に迫った。
◇聞き手・野添侑麻(琉球新報Style編集部)
きっかけは先輩からの「力を貸して」という言葉
−YOHさんはバンドとしても個人としても東北や九州、北海道、西日本豪雨の被災地などへの支援活動を続けています。活動を始めるきっかけを教えてください。
きっかけは東日本大震災です。テレビ越しにライブでつい2週間前に立ち寄ったばかりの東北地方に津波が押し寄せている光景を見て大きな衝撃を受けました。とっさに思ったのは、「自分たちの音楽を聴いてくれていた人たちは無事なのか」っていうこと。東北が今どういう状況か、現地で何が起こっているのか自分の目で確かめたくて、宮城県石巻市に向かいました。
旧北上川の沿岸部に降り立つと、災害の爪痕が現実となって自分の目に入ってきて1人では何もできない無力感に包まれました。「力になりたいけど、どうしていいか分からない」。そんな時にバンド活動の先輩であるBRAHMANのTOSHI-LOWさんから「力を貸して」っていうメールが届いたんです。メールには支援物資募集のリンクが張られていました。
彼らは震災後すぐに仲間に声をかけ、飲料水やお米、お菓子などを募り、茨城県、福島県、宮城県、岩手県の被害の大きかった地域に届け続けていたんです。メールが届いた数日後、沖縄から東京へ向かい、支援物資を手渡しで彼らに託しにいきました。TOSHI-LOWさんは笑顔で迎えてくれながらも、被災地の現状を知っている人とは思えないほど、淡々と、そして冷静に話してくれました。
そこで彼に伝えられたことは「勇気を振り絞って、このボロボロになった街に音楽を届けにきてほしい。1人の人間として何ができるかを含め、バンドに持ち帰ってほしい」ということ。この言葉の意味を考えながら、今度はメンバーも一緒に東北へ足を運びたいなと考えていました。
自身の意識を変えた出来事
メンバーのRYOも仲間と一緒に個人で炊き出し活動に行っていて、僕と同じく次はORANGE RANGEとして現地へ行きたいと考えていたようでした。バンドで動くとなると調整すべき問題もある中でしたが、スタッフと協議を重ね、2011年9月にバンドとして初めて岩手県大船渡市の保育園と宮城県女川町の避難所で炊き出しとアコースティックライブをさせてもらいました。この一連の経験は、今のバンドでの復興支援活動の礎となっています。
僕が「しっかりと向き合おう」と思ったきっかけとなる出来事がこの時にありました。機材の片付けをしている時に、ある女性が声をかけてくれたんです。「息子があなたたちの大ファンだったから」と言って、亡くなった息子さんの写真にサインを書いてほしいとお願いされたんです。彼女は悲しいはずなのにずっと穏やかに微笑んでいて…。今までどれだけの痛みや哀しみと向かい合ってきたのかを想像するだけで胸が張り裂けそうな気持ちになりました。その出来事がきっかけで、現地の人たちがそれぞれ抱えている気持ちや感情に寄り添っていかないと、ステージから一方的に届けているだけでは何も変わらない、と強く思ったんです。
被災した人たちと深く繋がれる場を
−そういう経験があったんですね。そこからNPO法人「幡ケ谷再生大学復興再生部」の復興支援活動にも精力的に参加されています。YOHさんが参加した主な活動について教えてください。
被害の大きかった地域とダイレクトに繋がることのできる形を探していた時に、TOSHI-LOWさんから「単発的ではなく、長く復興へのサポートができる環境を作ろうと思っている」という話を受けました。そこから「幡ケ谷再生大学復興再生部」が立ち上がり、活動に本格的に参加することを決めたんです。
震災から1年以上経ってから、「子どもたちが安全に遊べる場所がほしい」という声が現地の人たちから挙がったので、地主さんに許可を得て、2012年には石巻市大街道で、2013年には石巻市小渕浜で子ども広場作りがスタートしました。木材やタイヤを使って遊具を作ったり、花壇を作ったりしました。初めて完成した公園を見たときは、とても感動しましたね。当時、小学生だった子どもたちは今では立派なお兄ちゃん、お姉ちゃんとなり、その公園は2017年11月で役目を終えましたが、メンテナンスなどの継続的な活動を通して現地の漁師さんや子どもたちと交流を深めました。
日本全国どこで災害が起こっても、他人事じゃない
他にも幡ケ谷再生大学では、熊本地震や九州北部豪雨、大阪府北部地震、西日本豪雨など、全国各地で起こった災害でも支援活動を行っていて、僕も時間を作っては各地にお手伝いに行っています。
そういった個人の活動をきっかけにして、ORANGE RANGEとしても幾つかの場所でお手伝いに入らせてもらいました。その中の1つ、茨城県常総市にあるTシャツプリント工場では、2015年9月に発生した「関東・東北豪雨」で近くを流れる鬼怒川の河川が氾濫し、決壊したポイントから流れ込んできた濁流によって工場内にあった全ての機械と、商品になるはずだった約10万枚近くのTシャツが水没してしまいました。
故障した機械は壊れたまま、さらに水に浸かってしまった大量のTシャツは無料処分の災害ごみの対象にはならず、事業ごみに分類されてしまい、その莫大な廃棄費用は自己負担となることに。工場はまさに廃業寸前の厳しい状況下におかれていました。復旧の目処が立たない中、まだプリントの工程に入る前だった無地のTシャツを幡ケ谷再生大学に参加するボランティアの皆さんと一緒に1枚ずつ選別し、綺麗に洗濯、プリント加工を行ってリユースのTシャツとして再生させました。メンバーもお手伝いにきてくれて、Tシャツを干す作業に参加してくれました。工場は今、廃棄分すべてのTシャツの片付け、処理場への運搬、敷地内の修繕を終え無事に復旧はしていますが、行政の決めごとから外れてしまった場合に目の前の問題とどう対峙し、復興への道筋をつけていくのか。その大きな苦労に触れさせてもらった活動となりました。
実は、この工場は過去に何度か自分たちのグッズ作りでお世話になっていて、数年間その在庫がストックされていたんです。工場長が水害の後に敷地内から泥だらけになったそのグッズを見つけ出してくれて「本人たちのもとに返してあげたい」と、洗濯して保管してくれていて…。幡ケ谷再生大学の活動で訪れ、そのグッズを引き取った時にとても他人事とは思えない気持ちになったんです「なんとかこの工場を再生させたい。そのために自分たちに何ができるだろう」とスイッチが入った瞬間でした。
心からの本音を聞かせてくれたのは今年に入ってから
−現地の方の中では、家族ぐるみの付き合いをしている方もいると。実際に家族を連れて行ったこともありますか?
今年の夏に初めて子どもを宮城県石巻市小渕浜へ連れていきました。活動のたびに泊まらせてもらった民宿に宿泊しながら公園のメンテナンスをしたり、多くの生徒が亡くなった大川小学校や、被害の大きかった南浜地区にも足を運び、手を合わせてきたりしました。3日間ほどの滞在でしたが、本当にいろんな経験をさせてもらいましたね。現地の仲の良い漁師さんの娘さんにも「できるときでいいから家族も一緒に連れてきてほしい」ってお願いされていて、その約束も果たしたかったんです。
−子どもたちからは、現地での感想などはありましたか?
「東北、行けて良かった」と。こういうきっかけを何回か作って、大人になった時に改めて話せたらいいなと思います。親父と「実際に行った」っていうことは、きっと忘れないと思うから。
まだ計画中の話だけど、今度は小渕浜の皆さんを沖縄に招こうと思っていて、今後もずっと交流を続けていきたいなって思っています。3月11日だけじゃなくて、何年もかけて付き合っていく中で、ゆっくり育んでいきたいですね。これまで何度も顔を合わせているけど、自分に心からの本音を聞かせてくれたのは、今年に入ってからなんです。ある家族は、津波で奥さんと長男のお兄ちゃんが亡くなって、お父さんが男手一つで残った家族を守ってきた。この前、お母さんとお兄ちゃんのお仏壇に手を合わせにいった時に、そのお父さんが初めて「ひとりになるととても苦しくなるよ。津波がこなければ家族で幸せに過ごしていたはずだ…。でも、すべてを諦めるわけにはいかないし、震災がなければYOHやTOSHI-LOWみたいな仲間たちとも出会うことはなかった。その狭間で考えてしまうんだ」って話してくれてそんな彼らの支えに少しでもなりたいし、そのためにも活動を続けていくことが何よりも大事だと思う。
風化して忘れ去られるほど悲しいことはない
−11月29日、沖縄国際大学産業情報学部の特別授業に社会人講師として招かれ、ボランティア活動の経験を学生たちに伝えました。講義の中では「自分には被災地の悲しみや苦しみを、沖縄にいる人たちにも伝えていく義務がある」と話されていました。そう思った経緯は?
震災から5年が経ったときに、メディアが「節目」という伝え方をし始めたのを見てそう感じました。その時に、「震災はもう世間では過去のことになってしまったんじゃないか」と、自分が被災地に対して思っていることとのギャップを感じてしまいました。今も現地ではいろんな問題を背負って生きている人がいることを忘れてほしくない。震災に対する報道が減ったからもう復興したわけではないし、この先もまだまだ長い。「離れた場所で起きたこと」で終わらせたくないんです。風化して忘れ去られてしまうことほど悲しいことはないから。その気持ちから、沖縄の若い世代である大学生たちに向けてお話しさせていただきました。
※関連記事:オレンジレンジ・YOHが大学で講演「困難 投げ出さないで」
(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-845336.html)
−他にも、学生たちに向けて「選挙に行ってほしい」「沖縄戦の体験談をいま一度聞いてほしい」というメッセージを送っていました。
やっぱり沖縄に住んでいる身として、「米軍基地」っていう問題からは目を背けることはできないと思うんです。この問題は本当に複雑で、人それぞれいろんな意見があると思います。学生たちに伝えたいことは、「情報に惑わされることなく、自分なりの意見や考えを強く持ってほしい」っていうこと。
そのために一度、辺野古や高江などに足を運んで見てみるだけでもいいと思う。時には親戚や知り合いのつながりで「どこどこの政党に投票してね」って頼まれる時もあるかもしれないけれど、自分の意志で考えて投票するのが一番。沖縄を引っ張っていってほしい人、一緒に沖縄の未来を作りたい人。周りの考えに流されず、自分の未来へ一票を投じる気持ちで、若い人たちには選挙に参加してほしいです。
そして改めて戦争の体験談を聞いてほしいと思っているのは、どうしても子どもの頃に聞いた話って、子ども向けのソフトな語り口だったと思うんですよ。それが20代前半っていう今だったら、当時どういったことがこの島で起きていたのかということを、リアルに想像しながら聞くことができる。決して、おとぎ話ではなかったということを肌で感じられると思うんです。そうすると自分の考えや思いもより深いものになっていくのかなと思います。
僕がこう思うのも、沖縄戦の話も、震災の話も、いずれは次の世代に伝える日が必ずくるからです。自分の人生での経験を含め、全て胸に刻んで生きていきたいと思っています。これから社会へ羽ばたく学生のみんなには、生きていれば決して良いことばかりではなく、時には挫折したり、裏切られたり、自分の思い通りにならなくて苦しいときがくるかもしれないけど、自分の経験一つひとつから吸収し、困難に負けずに、より良い未来へつなげていってほしいなと思っています。
−最後に、YOHさんにとって復興支援活動とは。
うーん…。やっぱり「支え合うこと」かな。彼らに継続して会いに行くことが一番の復興支援になるんじゃないかと思っています。
僕の場合、まず「アーティストとしてできること」を周りからもたくさん求められるんだけど、自分がそれだけをやって「はい、僕たちは支援活動をしました」っていうのは違うかなと思っていて。守られた場所から目を凝らしたって、そこからはボンヤリとしか見えなかったりするんですよ。だから「一人の人間としてできること」が何なのか。考えたり動いたりした経験が同時に必要になってくるわけで。距離を埋めていく、縮めていくことが何よりも今の自分にとっては大切だったりするわけです。そこに存在する一人一人の気持ちに触れて、学んで、今を支え合って生きていったほうがきっと前向きに繋がっていくと思っているんです。兎にも角にも継続あるのみ。それしかないんです。人としてより成長できる道を自分自身で選びながら、これからの人生を歩んでいきたいですね。
YOH(ORANGE RANGE)
1983年生まれ、沖縄県沖縄市出身。5人組ロックバンド「ORANGE RANGE」のベーシストとして活動中。作品によっては作詞・作曲も手掛ける。
2001年にバンド結成、2002年にミニアルバム「オレンジボール」でインディーズデビュー、翌年2003年にシングル「キリキリマイ」でメジャーデビュー。ジャンルにとらわれない自由かつ高い音楽性と、卓越したポピュラリティが話題となり、数々の名曲を送り出し続けている。
2018年に通算11枚目のオリジナルフルアルバム「ELEVEN PIECE」を日本・台湾で同時リリース。
その直後に生まれた楽曲「Family」が、NHK「みんなのうた」にて放送中。
10月25日より全30公演を駆け巡る「ELEVEN PIECE」リリースツアーを開催中。
http://orangerange.com/
聞き手・野添侑麻(のぞえ・ゆうま)
琉球新報Style編集部。音楽と湯の町別府と川崎フロンターレを愛する92年生。18歳からロックフェス企画制作を始め、今は沖縄にて音楽と関わる日々。大好きなカルチャーを作っている人たちを発信できるきっかけになれるよう日々模索中。沖縄市比屋根出身。