<南風>ゆかないで


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 夕方になり、学童から孫の宗真を迎えた。すると嬉(うれ)しそうに「あー無事に生きていて良かった」と抱きついてきた。

 彼ら5年生のクラス仲間で沖縄にミサイルが飛んで来るXデーが4月某日だと騒いでいて、怖い情報に脅かされていたようだ。怖い夢も見たようで、うなされていた。聞くと、突然高い壁が現れてお母さんの所に行けなくなっていたという。恐ろしい事が起こるかも、という不安が幼い子供達の胸を締めつけている。

 90歳まで元気でいてくれた私の父の話がある。父も沖縄戦で全てを失った。家族を失い、自身も命だけは助かったが、左足の膝から下を失っていた。

 戦後、彼は知人の仲介で21歳年下の女性と結婚する。彼女も戦争で夫も子供も失っていた。一緒に生きていく事になった2人に最初に誕生したのが私である。2人目3人目と4人の子を授かった2人は、生きていく支えを得たのだろう。

 子供の頃をふりかえって思いだす事がある。毎年我が家では10月10日になると鶏料理を作り、お供えして家族で食べるのが恒例になっていた。

 ある時、どうして10月10日は鶏料理かと聞いた私に母が教えてくれた。10・10空襲で亡くなった春子姉が生前父に「戦争が始まると言うし、飼っている家の鶏を潰(つぶ)して食べた方が良いんじゃないの?」と言ったらしい。聞き流していた父だったが、その後すぐ10・10空襲が起こり、春子姉は犠牲となった。18歳だったらしい。

 父はその出来事をずっと悔やんでいて、私達の父親となってからも春子姉の命日10月10日には鶏のお汁を供えていた。悲しみを言葉にした事は一度もなかったが、ささやかな供養は父がこの世を去るまで続いた。

 「逝かないで 親を 私を 子を置いて」

(國吉安子、陶芸家、「陶庵」代表)