<南風>レタスの記憶


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 幼い頃の3つの記憶が、ときどき蘇(よみがえ)る。

 父は東京の大学・夜間部に通い始め、ほどなく家族を那覇から呼び寄せた。昼間の勤めは駐留米軍の野菜農場で、4、5歳の私は父に連れられて行った。

 野球のホームベースを立てて長く延ばしたような大きなガラスの温室がずらりと並ぶ。農場のオフィスには紙コップを押しつけると水がでる装置があり、それまで見たこともなかったレタスやセロリを初めて口にした。貨物列車の線路もあった。振り返れば朝鮮やベトナムで戦争してきた巨大な軍隊機構に慄然(りつぜん)とする。

 4歳下の弟を負ぶい大きな手さげ袋を持つ母に、はぐれまいとついてゆく。袋の中身は、ポーク、コンビーフ缶、インスタント・コーヒー、軍の物資らしいアイスクリームの粉末の缶、固形石鹸(せっけん)などで、外国製品を扱う小さな店が並ぶ上野の「アメ横」だったと思うのだが、売りに行ったのだ。

 那覇の祖母から時々届く小包で、戦中とはいえ台湾で不自由なく女学校時代を送った母が、店員と真剣にやり取りする姿が脳裏に残る。生活費の足しにと父に内緒で出かけていたようだ。

 私が小学校に上がる前に苗字が変わった。家庭裁判所の一室なのだろうか、怖そうなおじさんから「一度変更したら元には戻せませんよ、よろしいですね」と問いただされている光景が浮かぶ。そして名嘉真姓から安田(やすだ)になった。

 父は、本土の人は名嘉真が読みづらく不便を感じていたからとしか言わなかったが…。大阪にいた父の兄は「仲間」に変えている。北部に安田(あだ)という地名があるが関連は判然としない。

 記憶の背後に見え隠れする風景に沖縄と本土の戦後史が刻まれていると気づく。今ではどこのスーパーでもレタスが手に入る。葉のシャキシャキ感に、ふと記憶が巡る。時代を見据えろというかのように。
(安田和也、第五福竜丸展示館主任学芸員)