<南風>描くこと


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 「寝ても覚めても、ただあなただけ」は懐メロの歌詞だが、私は夢の中でも絵を描いている。正確には、絵を描いている夢を毎日のように見る。

 学生の頃、よく見る夢があった。突然ミューズが舞い降りてきて傑作を描きあげた私を見る。完成した絵は具体的で、夢から覚めても忘れないようにと思うのだが、起きたら形も色も思い出せず、日々の遅々として進まない制作活動へと戻っていく。自分の仕事が前進か後退かもわからぬまま、大量の絵が積み重なり、毎日がただ過ぎていく。

 青年の私は、生涯にただ一枚の傑作を描くことができれば、すべてを犠牲にすることも厭(いと)わなかった。悪魔にも喜んで魂を売ったと思う。しかし、年を取って少し考えが変わった。代表作などというものは、死後に他人が決めるものでしかない。生きていること自体が表現そのものであり、描きたいものも自分自身も変化していく。他者の評価がどうであれ、画家は次の作品でさらに自分が納得いくものに近づけると信じ描き続ける。

 いっこうに絵は売れず、ついに名を成すこともなかったが、すべてのしがらみを捨て、色・形・空間・マチエル・バルールをただ追いかける。そうすると、ごく稀に自分が消えてなくなり、刹那が永遠となる至福の時が訪れる。私の背後に確かにニケが立っている気配がする。

 描くことと生きることが一体となる、それが絵描きとして生きることだと思う。

「いい趣味をお持ちで」と言われるたびに傷ついてきたが、それにも笑顔をつくれるようになった。これから私はどこへ向かうのだろう。

 最近、私は頭が鳥の頭蓋になる「鳥の女」を描いているが、「この人は、トウモロコシばかり食べたから鳥の顔になった」と新たに校長室に通う女生徒が言った。なるほど、もっともっと自由であらねば。
(前田比呂也、那覇市立上山中学校校長 美術家)