<南風>重箱の隅的反芻


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 ナレーションでよく出てくるフレーズに「沖縄独自に発展」がある。独自とは、他とは関係なく自分一人であること。つまりウチナービケーンということだが、中継貿易をしていた時代、中国や東南アジア、日本などから影響を受けたことを考えると、独自といってもいいのかと疑問が湧いてくる。完全オリジナルはあるのか。発展の方向性が少しでも沖縄風であれば可?

 「ウチナーンチュの心」。これも多い。ウチナーンチュの心って何? 平和を願う気持ち。でもそれはどこの誰だって願ってる。じゃあ、イチャリバチョーデー? ホスピタリティも沖縄だけのものではないし。ナンクルナイサ! 人事を尽くして天命を待つって諺(ことわざ)もあるしなー。いや、そもそもウチナーンチュって沖縄生まれって定義でいいの?

 ナレーション収録中、こんな事が頭をよぎったりします。仕事柄というのもあるが、私が胸を張って「ウチナーンチュです」と言えないせいでもある。私は沖縄の生まれ育ちだが沖縄の歴史・文化に精通しているとは言い難く、使用言語の9割は共通語で、ウチナーグチは聞き取りのみ。だからこそ考えてしまう。原稿通りに読んでいればいいのかもしれないけど。

 最近、その言葉だけ切り取って考えるからおかしなことになるのではという結論にたどり着いた。独自もウチナーンチュの心も、そこに至るまでの大きな文脈を忘れてはいけない。多様性の中で沖縄流が育まれ、生み出されたのだ。そこをすっ飛ばして「ウチナービケーン」となることは、井の中の蛙(かわず)状態の怖さがあると思う。重箱の隅を突くにも、独自に発展するにも、深い知識と広い視野が必要だったか。まだまだ勉強が足りなかったわ。

 ところでウチナーンチュの定義。沖縄生まれ、沖縄勉強中の人間も含む…でもいいですか。
(諸見里杉子、ナレーター・朗読者)