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抑圧継続の源にも 不平等を可視化する概念 池田緑<ポジショナリティからみる沖縄と日本>1 プロローグ


抑圧継続の源にも 不平等を可視化する概念 池田緑<ポジショナリティからみる沖縄と日本>1 プロローグ
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 琉球新報読者のみなさん、こんにちは。これからポジショナリティについて沖縄と日本の関係を中心に連載することになりました。私は、東京の大学で植民地主義やジェンダーにおける権力や抑圧、それらの関係に現れるポジショナリティについて研究している日本人です。

 ポジショナリティは、集団間に抑圧や格差があり、それが個人の間に現れる様相を捉えようとする概念です。沖縄と日本との関係でいえば、沖縄と日本との間には不平等や格差があり(集団間の関係)、それが沖縄人個人と日本人個人との個人的関係やコミュニケーションに影響したり、力関係が個人の間でも繰り返されたりする様子を分析する視点といえます。

 ポジショナリティは、学問的にはある程度知られた考え方ですが、一般社会ではまだまだ馴染(なじ)みがないでしょう。しかしこのテーマを連載する場所として、琉球新報はもっともふさわしいもののひとつと思います。たとえば朝日新聞のデータベースを調べてみたところ、これまでにポジショナリティという言葉は2回しか登場していません。そのうちの1回は今年6月の私自身へのインタビュー記事でした。

 一方で琉球新報ではこれまで24回登場しています。沖縄の新聞でポジショナリティがたびたび登場してきたということは、沖縄をめぐってポジショナリティを論じる必要が継続的にあったということです。

モヤモヤ感

 ポジショナリティが問題となるのは、抑圧や不平等が存在するときなのですから、ポジショナリティを論じなければならない状況が沖縄で多いということは、残念なことですが、解決すべき抑圧や不平等が集中してきたということを意味します。日本でのポジショナリティの議論は、ジェンダー(性差)の領域と、そして沖縄における基地問題や差別をめぐって蓄積されてきたという経緯があります。ポジショナリティ論の発展には、たとえば野村浩也さん、知念ウシさん、桃原一彦さんなど、多くの沖縄の論客の寄与がありました。それらの議論も連載の中で適宜紹介したいと思います。

 「沖縄の人は大変ですね。応援しています」「沖縄の人はもっと基地に反対すべきだ」と日本人が発言する。沖縄の文化や「沖縄のこころ」について、日本人が自分のことのように解説する。あるいは、「沖縄にも先島差別がある」「沖縄社会の男尊女卑傾向は強い」などと唐突に指摘する。「平和を求める気持ちは同じなのだから、そこに日本や沖縄という違いはない」「基地に反対する日本人もいるのだから、日本人と一括(ひとくく)りにして批判するのは敵を見誤っている」と日本人が教え諭す。さらには、「ナイチャーは差別的な呼び方だから使うべきではない」「基地反対のために連帯しているのだから、日本だ沖縄だと分断を持ち込むべきではない」と説教する。

 これらをどう感じるでしょうか。人の考えや意見は多様なので、様々な感じ方があるでしょう。「その通りだ」あるいは「とんでもない言いがかりだ」などなど。あるいは発言内容そのものには賛同できても、なんとなく釈然としない感覚をもつ人もいるのではないでしょうか。そのような場合、ポジショナリティの問題がかかわっている可能性があります。その場合の釈然としない感覚は、発言内容そのものに対してというよりは、誰がどのような文脈でそれをいうのか、という問題にかかわります。ポジショナリティが意識されるのは、たとえはっきりと認識できなくとも、「ん?なんか変だぞ」「うまくいえないけど、なにかモヤモヤする」といった感覚を伴うことが多いと考えられます。

 ポジショナリティが問題となるときとは、なんらかの非礼があったり、敬意が欠けているような場合が多いのです。それはごまかしや話のすり替えなど個人的な非礼もあるでしょうが、本人が気づかないままに彼我(ひが)の違いを無視する、自らの特権や責任を棚上げするといった形もあり、その無視や棚上げという態度が相手には敬意の欠落と感じられ、さらなる不平等や抑圧の継続の源ともなりうるのです。ポジショナリティとは、その不均等な力関係を可視化する概念です。

 ところでこの連載では、しばしば「沖縄人」「日本人」という言葉が登場します。この呼び方、とくに「沖縄人」という呼称に違和感を覚える人もいるかもしれません。この呼称は、民族的なもの、民族的アイデンティティの表現、出自を基本としたもの、などとは異なります。あくまでも社会のなかでどのような位置(ポジション)にあるのかという事実を元にした、ポジショナリティ上の呼称です。その位置が変われば使う必要がなくなるものにすぎません(もちろん、沖縄の人々が日本に同化するという意味ではありません)。この点については、後に回を改めて考える予定です。

状況の整理

 最後に、連載をはじめるにあたって最も重要なことを確認したいと思います。ポジショナリティを考えることによってどのようなことが可能となるのかです。大きくは三つあります。ひとつは、私たちをとりまく様々な権力関係やその責任について、個人と集団に起因するものとを分けて考えることによって、状況の整理が容易になることです。つぎに不平等な関係において、なにが棚上げされやすいのか、どのような欺瞞(ぎまん)が発生しやすいのか、それらのパターンを考えることです。最後に、ポジショナリティは人々の社会における位置を明らかにしますが、それは未来永劫(えいごう)不変のものではなく、私たちの意志と選択で変えられるものであること。そのためにはポジションの相違を超えて、認識を共有することが重要であるということです。

 琉球新報読者のみなさんには、沖縄人、沖縄に移住した日本人、沖縄を離れて日本で生活している沖縄人、日本にいる日本人、外国籍の方、女性/男性など、様々な立場や生活のありようの人がいるでしょう。それぞれの社会的位置に応じたポジショナリティがあるでしょう。この連載が、ポジショナリティを考えることで、新たな自分自身のありよう、そして他者との関係性のありようを再考するきっかけになればと願っています。お付き合いいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

 (次回は22日掲載)


 いけだ・みどり 1968年富山県生まれ。大妻女子大学社会情報学部准教授。慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程単位取得退学。専門は社会学、コロニアリズム研究(沖縄と日本を中心に)、ジェンダー研究、ポジショナリティ研究。著書に『ポジショナリティ』(勁草書房)、『日本社会とポジショナリティ』(編著・明石書店)などがある。