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集団的利害 基地負担免れる日本 思想に関係なく利益享受 池田緑<ポジショナリティからみる沖縄と日本>2


集団的利害 基地負担免れる日本 思想に関係なく利益享受 池田緑<ポジショナリティからみる沖縄と日本>2
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 ポジショナリティは、集団に属することで生じる利害関係が、個人の関係においても現れる様相や責任などを明らかにしようとする視点です。今回はこの点を考えます。

棚上げ

 昭和初期のヤマトで説教強盗という事件があったそうです。強盗が民家に押し入り、金品を奪うのですが、この強盗は去り際に押し入られた家の人に向かって、戸締りの甘さを指摘したり、防犯のために犬を飼うようにアドバイスしたそうです。このエピソードに接した人は、おそらく「おまえがいうか!」という感想をもつのではないでしょうか。防犯を説くのに、強盗はもっともふさわしくない人物だからです。自分の強盗という行為を棚上げしたもの言いだからです。

 ポジショナリティは、しばしば違和感や釈然としない感覚として現れます。そしてポジショナリティを無視する行為や言動は、多くの場合「棚上げ」を伴っています。たとえいっている内容は適切でも、それをいう人によっては、受け取る方は棚上げと感じるのです。

 「沖縄の人は基地反対を頑張ってください。応援しています」「沖縄の人たちはもっと基地に反対すべきですよ」といった言葉を、日本人が沖縄人にいう場面にでくわしたことが何度かあります。いわれた沖縄人は、一瞬表情が消え、なんともいえない複雑な表情を見せたり、あきらめたように苦笑したり、怒りを隠さなかった人もいました。そしていった日本人もまた、そのような沖縄人の反応に接して戸惑うのです。なぜそんな反応をされるか理解できないのです。

 これらの発言は基地反対の立場での集会やシンポジウムで発せられたものでした。いわれた沖縄人も基地に反対している人々で、反対運動を進めたいと考えている人なのです。双方の目標や考えに違いはありません。沖縄に基地を置いておくべきと考える日本人と、基地を撤去したいと思っている沖縄人との間ならば、そこには個人的な思想の対立があります。すべての日本人が基地を沖縄においておくべきと考えているわけではなく、すべての沖縄人が基地を撤去したいと思っているとはかぎらないからです。それらの意志は個人的な判断によるものという意味で、個人的な思想です。

 しかしこの場合には、そのような個人的思想の対立点は存在しません。にもかかわらず、ここでは決定的な齟齬(そご)が発生します。それは、そういう発言をした日本人が、なにかを棚上げしているからです。それは日本人個人が受け取っている集団的利益です。

 それは、沖縄人の負担のうえに基地の負担を免れていることです。これは個人の思想や意志では拒否できません。ある日本人が、沖縄の基地負担を心苦しく思い基地反対運動に参加していても、現実にはその人は基地の負担を免れていて、自分だけ負担することは不可能です。同様に、沖縄人も個人の思想によって特定の個人だけが基地負担を免れることは難しいでしょう。日本人であれば個人の思想や選択にかかわりなく負担を免除され、沖縄人は同様に負担させられているのです。これは集団的な利害であり、それがそれぞれの集団の個人の身のうえに降りかかっている状態といえます。

 日本人は、そういう日沖関係から自らが得ている利益から自由ではありません。その利益の当事者という点を棚上げして、「応援している」とか「もっと反対すべき」などと他人事のように発言したので、強烈な違和感をひき起こしたと考えられるのです。そもそも「応援」といった言葉は当事者の意識があれば出てくるものではないでしょう。

集団と個人

 ポジショナリティが明らかにするのは、集団間にある利害関係の様態です。つぎにそれが個人間に配分されている様態です。さらに、個人間でどのような不平等や格差となって現れているかです。これらは意識やイデオロギーなどではなく、事実に属する事柄です。沖縄人の微妙な反応や怒りに接して、逆に怒りだす日本人もいます。「自分は正しいことを言っているのになぜ怒るのか」「日本人というだけで一括(ひとくく)りにして批判するのか」「私は基地に反対しているのに、政府と私とを日本人と一括りに批判するのは敵を見誤っている」といった反応はその典型です。そのような日本人は、基地に反対するという個人の選択と、基地負担を免れているという集団的利害とを混同している、区別ができていないといえます。

 こういったやり取りの先にしばしば日本人が口にする「日本人に生まれたのが悪いのか」という捨て台詞(ぜりふ)も同様です。もちろん日本人に生まれたことが問題なのではなく、現実に集団的利益を享受していて、その状態を変更できていないことが問題となっているにすぎないのです。この利害はたとえ基地に反対していても関係なく存在します。ポジショナリティはその利害の存在を明示するのです。基地を積極的に沖縄に置こうとする人々や、そういう決定に関わった役人たちには、このポジショナリティ上の集団的責任に加えて、そういう決定や意志を表明したことについての個人的行為の責任が上乗せされて存在しているのです。

 じつは、先に紹介した説教強盗の例はポジショナリティとは関係がありません。強盗は個人的な行為で、集団的な利害ではないからです。しかし「おまえがいうか!」という感覚はポジショナリティを考えるときに重要です。強盗は個人的行為を棚上げしましたが、ポジショナリティが問題になるときには、集団的な利害が棚上げされていることが多いのです。

 なお、日本(ヤマト)にも厚木や岩国、三沢のように基地被害がある場所もありますが、それはこの構造とは関係ありません。この点は第7回以降に考えます。またこの連載では「日沖関係」という用語を使います。日本→沖縄の順番に違和感を覚える人もいるでしょう。それは日本を中心とした視点ではないかと。しかしポジショナリティにかんする議論にかぎっては、「沖日関係」ではなく「日沖関係」と表記される必要があります。なぜなら、沖縄と日本との間の不平等については、それを主導的・主体的に設定してきたのは沖縄人ではなく日本人だからです。したがってこの関係性を「沖日関係」と表現することは、事態を正確に表せない可能性があるからです。

 (大妻女子大学社会情報学部准教授)

 (毎月第4木曜日掲載、次回は9月26日)


 池田 緑いけだ・みどり) 1968年富山県生まれ。大妻女子大学社会情報学部准教授。慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程単位取得退学。専門は社会学、コロニアリズム研究(沖縄と日本を中心に)、ジェンダー研究、ポジショナリティ研究。著書に『ポジショナリティ』(勁草書房)、『日本社会とポジショナリティ』(編著・明石書店)などがある。