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「国頭サバクイ」 労働歌起源の伝統芸能 <島唄を求めて>4曲目 小浜司


「国頭サバクイ」 労働歌起源の伝統芸能 <島唄を求めて>4曲目 小浜司 国頭サバクイを披露する奥間区民=8月2日、国頭村の北斗園(喜瀬守昭撮影)
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 今年の夏は暑すぎてアササー(クマゼミ)の夏休み大合唱も心なしか鳴りをひそめていたように思う。しかしながらこの季節、祭り好きのウチナーンチュは琉球列島至る所で祭り、祭りの蝉しぐれ状態。村の夏祭りに字の豊年祭、シヌグ、ウシデークに綱引きと天上の神様達は、来年の豊作を見極めるにも、どの祭りを観に行くか迷うところであろう。数ある祭りの中でも筆者のおすすめはヤンバルは国頭村奥間の大綱引き。綱引きも色々あるが、奥間のそれは少し趣が違う。旧八月十五夜(今年は9月17日)の「満月」が天空の真上に到達した頃合に、綱を引き競い合うという甚だ神秘的な綱引きだ。しかし、今回筆者が取り上げるのは綱引きではなく、奥間集落が元祖とする「国頭(くんじゃん)サバクイ」についてである。

発祥の地

 「国頭サバクイ」はご存知の通り、木遣(きや)り労働歌から発展した伝統芸能である。県内外に伝わる同系の芸能の中でも奥間は「サバクイ」の発祥の地であり、最も古い形態を残している。去る8月2日、社会福祉法人容山会特別養護老人ホーム北斗園(国頭村辺土名)の「第44回北斗園まつり」にて「国頭サバクイ」が行われた(映像は文末のQRコードから)。筆者も早速観に行った。その一連の演目は素朴でありながら、生き生きとした躍動感にあふれた芸能に感銘を受けた。後日、現代のサバクイ・大田孝佳に話を聞いた。

 小浜 奥間生まれ奥間育ちですか?

 大田 小学、中学、高校は辺土名高校。それから大学は山梨の方に。神奈川で仕事もしたけど、子育てとか考えるとやはり家族のいる奥間が良いかな、と。

 『国頭村史』によると、奥間は「1732年国頭間切番所が浜村から本村に移転してきて、以後1914年(大正3)役場が辺土名に移転するまでの間、国頭村行政の中心地となった。番所は現奥間小学校敷地内にあった。遠隔地出身の地頭代以下の間切役人や検者・下知役はここに移住した」。常に国頭村の中心的役割を果たし、また「かぎやで風節」ゆかりの地としての鍛冶物語を持つ村であり、沖縄音楽を学ぶ人たちが詣でる聖地でもある。

 小浜 国頭の中でも奥間は古い集落で、行事も多いですが、幼い頃に実感したことはありました?

 大田 小さい時はやっぱり獅子舞だね。小学5、6年から入っている。演ずる人が限られていて、中学、高校とやっていた。

 小浜 色々な行事の中でも演じられますね。

 大田 奥間の獅子舞はちょっと変わっている。簡単に言うと、観せるための芸能じゃなく、神の使いとしての獅子舞なんです。だから観光客相手じゃない。

 小浜 「国頭サバクイ」を意識し始めたのは?

 大田 沖縄帰ってきてから。平成元年(1989)かな。首里城復元の木挽(こび)き式。

 小浜 かつての首里城の建築材料を運ぶときの儀式、城の木挽(こびき)門から搬入された。

 大田 凄(すご)いなあと感動したんです。歴史的な出来事を、首里城の王様のために、奥間の地域の皆さんがそれこそ一丸となって、踊り手の皆さんも男性軍も一緒に成し遂げることの意義を感じた。最初は棒持ちで、できたらサバクイになりたいという気持ちも起った。

 捌理(サバクイ)とは『琉球史辞典』によると「地方間切の役職で地頭代の下にあった。捌理は四捌理と称して1首里大屋子、2大掟、3北掟、4南風掟の4職を指した。地頭代を今の村長とすれば首里大屋子は助役、他の3掟は収入役にあたる」。国頭捌理(サバクイ)は山を管理していた役職といえよう。

 小浜 北の御殿の完成の時に。

 大田 演じられたと聞いた。完成祝いの宴の中で、余興的な形で即興で演じられた、と。

サバクイを演じる大田孝佳さん(手前)=8月2日、国頭村の北斗園(喜瀬守昭撮影)

一致団結

 1709年首里城は火事(失火)で大半を失ってしまう。2019年の焼失の際に県民に与えた大ショックは記憶に新しいが、18世紀その頃ウチナーンチュに与えた消失感も相当大きかったに違いない。しかし、国師・蔡温によって城は設計され6年後の1715年再建された。師曰く「首里其都ハ、万々世々決シテ改建スルコト勿レ」(『球陽』)としている。「国頭サバクイ」が演ぜられたのはその落成式の場だとされる。

 大田 大祝宴会に全島の間切役人が招待され、芸を披露した。いざ、国頭間切の出番となった時、サバクイ自らが舞台に飛び出し、機転をきかせて御殿の用材の切り出しや運びの木遣りの仕草を即興的に面白おかしく歌い踊った。これが王をはじめ観衆に大受けで宴は大いに賑(にぎ)わった。国頭の集落の人が、王様のために労力を惜しまずにやったということを伝えたくて演じたと僕は受け取っている。

 小浜 ウシレーク(臼太鼓)の後続する芸能として演じられている。

 大田 ウシレークで歌われる節にもサバクイを示唆する歌詞がいくつもある。

 小浜 そうですね、女の人も木を引いてますもんね。

 明治38年、名護での「国頭サバクイ」の実演(国頭郡主催)でもウシレークが先行して演じられた記録がある。その際、ウシレークすべて演じると長すぎるというので節や歌詞を大幅にカットされたようだ。

 小浜 この芸能は絶やしちゃいけない?

 大田 こういう伝統芸能の深みというのは、やってみないと分からない。サバクイ以下全員が一致団結して、目標のために危険を顧みず命懸けでやり遂げた、という奥間の先輩たちの心意気を若い人たちにも伝えたいし、伝わるものと思っている。(敬称略)

(敬称略)
(島唄解説人)

(次回は10月18日)


<肝探(ちむさぐ)いうた>躍動感と迫力ある演舞

 「国頭(くんじゃん)サバクイ」

サバクイ はにがら エーイ
(全員) エイサー エーイ

一、サー 国頭サバクイ ユイシー ユイシー
  サー 酒飲(さきぬ)りサバクイ ハイルレー ハーラーレ
  ユイサー ハリガユイーササ

二、国頭山(くんじゃんやま)から 出(ん)だちゃる御材木(うぜむく)

三、長尾山樫木(なごーやまかしち)や 重(んぶ)さぬ引(ひ)からん

四、老(う)いてぃ若(わか)さん 肝(ちむ)てぃち合(あ)わちょてぃ

五、鏡地浜(かがんじばま)から 引(ひ)かちゃる御材木(うぜむく)

六、北(にし)ぬ御殿(うどぅん)ぬ 御材木(うぜむく)だやびる

 国頭サバクイの演技はこうである。臼太鼓(ウシレーク)を歌い踊る女性たちの円陣の中央に大きな丸太が横たわり、引きやすいように縄がつけてある。臼太鼓が終わる頃、サバクイは斧(おの)で木を削って、ウフーエ(小役人)に木を切り出す人夫を集めるよう命令する。

 ウフーエは法螺(ほら)貝を吹き「十三六十(じゅうさんるくじゅう)、長尾山ンカイ、木スンキーが出ンソーリヨー(13歳から60歳までの村人全員山に集まりなさい)」ウフーエは藁算(わらざん)方式で出席者をサバクイに報告。待機していた若者(ニーセー達)も気勢をあげ、棒と鉄柄を持って、女性らのように円陣の内側に分かれて大きな丸太に向かい合う。

 そしてサバクイの音頭で歌が始まる。サバクイは斧を高く上げ、力強い声を響かせる。全員がハヤシを入れ応える。女性陣は手巾を振り踊り歌い、男衆は棒と鉄柄を打ち合って勇ましく叫ぶ。その躍動感ある迫力に観客は圧倒される。法螺貝と指笛が鳴り響き演舞は最高潮となる。

 奥間では「十三六十」という言葉を今でも時々耳にする。13歳から60歳まで男女問わず村人全員が首里城築城と普請の賦役として木の切り出しに従事させられた。切った木は比地川に落とされ、鏡地の浜で貯木され、首里へと運ばれた。