悲劇を呼ぶ相互監視 見えぬ「恐怖」デマ生む


悲劇を呼ぶ相互監視 見えぬ「恐怖」デマ生む
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 「私もこんなふうに疑われていたのかな」。本島南部に住む50代のタクシー運転手の女性は3月下旬、同僚の運転手の体験を聞き身震いした。

 新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、発熱があった同僚は大事を取って営業を自粛した。幸いにも同僚は感染しておらず、約2週間休んだ後、現場に復帰した。しかし、運転手仲間から思わぬ言葉を浴びせられた。「コロナの菌を持ってるんじゃないか」

 「休んでいる間にうわさが広がったようだ」と肩を落とす同僚を目の当たりにして、暗い気持ちになった。2月、クルーズ船が那覇港に寄った。その船客を乗せたタクシー運転手の感染が発覚した当時の状況を思い出したからだ。女性も乗客を送迎したため出社を2週間控えた。同時期、同居の親族が発熱した。「疑いの目がないか気になる。人のうわさは本当に怖い」

 ウイルスという「見えない敵」への恐怖からだろうか。相互に監視し、不確かな情報から攻撃的な言説が生まれる雰囲気が漂う。

護郷隊について語る名護市教育委員会の川満彰さん=名護市

 沖縄戦当時、陸軍中野学校出身将校によって組織された少年兵部隊「護郷隊」を調査した、名護市教育委員会市史編さん係の川満彰さんは「戦時下で生まれた密告社会も多くの悲劇を生んだ」と指摘した。

 戦況が悪化していた沖縄戦末期の1945年、今帰仁村の宮城康二さん(92)は17歳で護郷隊に入った。日本軍はスパイリストを作っていた。「うわさが2人を殺した」

 護郷隊は解散したが、宮城さんは海軍の部隊に身を寄せた。ある日、部隊の兵士が大量の返り血を浴びて戻った。兵士は「スパイを殺してきた」と言った。

 殺されたのは今帰仁村渡喜仁の住民だった。宮城さんは兵士から聞いた。「夕ご飯を食べている時に連行されて日本刀で斬り殺された。『海軍の者だ』と名乗って呼び出したそうだ」

 スパイの疑いを掛けられた5人のうち2人が殺された。宮城さんは「誰かがスパイだと兵士に話したんだ」と振り返った。だが、スパイの嫌疑の根拠になるような証拠はなかった。

沖縄戦当時の住民虐殺について語る宮城康二さん=今帰仁村

 「(告げ口は)部隊に出入りしていた女の人がしたと言っていた。今となっては何も分からない」

 同様の日本兵による「スパイ虐殺」の事例は県内各地で報告されている。川満さんは「戦時には翼賛体制の下で各地方に隣組が組織され、住民同士の相互監視が生まれた」と指摘した。

 背景にあったのは1938年に制定された国家総動員法。「私権」を制限する法制度の下で国家統制が敷かれ、行き着いた先は戦争だった。

 コロナ禍の今、私権制限の必要性の是非が論じられている。緊急事態宣言の強制力を巡り、自民党内では有事の際の政府権限をさらに強めるため、日本国憲法への緊急事態条項の創設を求める声が上がった。

 川満さんは強調した。「新型コロナの感染拡大を『国難』と称して私権を制限する法改正に結び付けようとする動きに違和感を覚える。主権が国民になく『国体』ありきだった時代に何が起きたのか、今一度振り返るべきだ」

 (安里洋輔)

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 沖縄では地上戦が繰り広げられた後、米軍占領が27年間におよび、日本国憲法が適用されなかった。いまも広大な基地が残る沖縄から国民主権や民主主義、コロナ禍を考える。