9条の尊さかみしめ 戦争体験者、改憲動き危惧


9条の尊さかみしめ 戦争体験者、改憲動き危惧
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 新型コロナウイルスの感染拡大の影響は市民生活に留まらず、全国の法廷にも波及した。那覇地裁でも3月下旬から次々と裁判の延期が決まったが、その一つが「安保法制違憲訴訟」だった。集団的自衛権の行使を認めた安全保障関連法が「不戦」を明記する憲法に違反するかが争われた訴訟は先月16日に判決が出る予定だった。

 「あんな戦争は二度とごめんだ」。横田チヨ子さん(91)=宜野湾市=はそんな思いから訴訟の原告団に加わった。「戦争の実態を訴えたい」と証言台にも立った。

 「大本営発表以外は信じるな。その言葉を信じた末に待っていたのは地獄だった」。沖縄から当時日本領だったサイパンに移住していた横田さんは、南洋の島で戦火に巻き込まれた。

 軍国少女だった横田さんの夢は、「満州で従軍看護婦になること」。夢の実現のため、歯科医院で働きながら看護師の資格取得を目指した。父親は国の南洋進出に伴って設立された国策会社で働いた。国家体制と一体だった家族の暮らしはある日、一変した。

 44年6月から空襲が始まった。米軍の侵攻に追われ、たどり着いたのはアダンの大木。米軍機の攻撃を避けるため両親ときょうだいが身を寄せ、横田さんはそこから少し離れた木の下で息を潜めていた。その時、破裂音が響いた。

 「兄さん、やられた」

 右脇腹に銃撃を受けた横田さんは思わず叫んだ。駆け寄った兄が、横田さんを家族がいるアダンの木に避難させたが、攻撃は終わらなかった。

 「機銃掃射が合図かのように今度は迫撃砲が飛んできた」。砲撃を受けた兄は死に、父も左腕に重傷を負った。断裂寸前になった腕を自ら切り落とそうとした父はその傷が原因で衰弱し、翌日息を引き取った。

 「カミソリで腕を切ると大量の血が噴き出してどうしようもなかった。家族と離れていたせいで父と兄が死んだ、と自分を責めた」

 避難中に母、弟ともはぐれ、ひとりぼっちになった時には死ぬことも考えた。思いとどまったのは「何としても生きろ」という父の遺言があったからだ。

 自身の戦争体験から「戦争の放棄」をうたう憲法9条の尊さをかみしめる。しかし、違憲訴訟に関わる安保法制をはじめ、改憲の動きは加速している。新型コロナの感染が広がると、私権制限を強める「緊急事態条項」の創設を求める声まで出てきた。横田さんは「新型コロナは確かに怖い。でも、異論を許さない全体主義はもっと怖い。戦争を知る私たちは、大きな声にかき消された真実がないか、問い掛けることを止めてはいけないと思っている」と力を込めた。
 (安里洋輔)