【評伝・島袋周仁さん】「沖縄の製造業、捨てたものじゃない」情熱の源泉は久米島に


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インタビューに答える島袋周仁氏=2008年12月

 泡盛と沖縄をこよなく愛し、誇った県経済界の重鎮、島袋周仁さんが逝った。「久米島の久米仙」を率い、県工業連合会長も長く担った。風光明媚(めいび)な久米島で生まれ育ち、東京で学んだ若き日の歩みは、離島県・沖縄の不利性を克服するものづくりに熱い情熱を注ぐリーダーシップの源泉だったように思う。

 全国の泡盛愛好会に顔を出した足で稼ぐリーダーは慕われ、泡盛の魅力を存分にアピールした。ロシア、中東まで海外展開する先見性を発揮し、泡盛文化を世界に広げた功績は大きい。明るく親分肌だった島袋さんのまっすぐで飾らない人柄と、温かさが宿った、単刀直入な辛口トークのファンは多かった。

 「もろみが発酵して泡立つのを見ると、育ち盛りのわが子のようにいとおしくなる。それぐらい、泡盛が好きだ」。2008年秋、発足したばかりの経済部キャップとしてあいさつに出向くと、久米島にルーツがある私を歓迎してくれ、泡盛づくりへの情熱を子への愛情に置き換えて表現した。

 そのまなざしは県産品全体に向いていた。

 県の財政事情が悪化し、「沖縄の産業まつり」が2004年から民間主導に衣替えしたことを好機到来と捉え、県工連会長だった島袋さんは、県外のバイヤーを招いたり、商談ブースを設けたりする改革の先頭に立った。「ものづくり企業の日々の精進と地場の知恵を生かした新商品に光が当たる場にしたかった。本土から離れていても、沖縄の製造業は捨てたもんじゃないとPRしたかった」という狙いは当たり、製造元と買い手がつながる付加価値の高い大型催事に発展した。

 東京農業大に進学し、大学院で醸造学の研究を深めようとしていた矢先に先代が急逝し、1965年に仲里酒造(現久米島の久米仙)に入社した。当時は出荷量が少なく、「製造ラインの仕事は半日足らずで終わるほどだった」。県民に泡盛をどう普及するかに悩み、一升瓶を抱えて島の先輩を訪ね歩き、品質向上への助言を請うた。

 研究熱心さを踏まえ、「大学に残っていたら、泡盛醸造の専門家になっていたのではないか」と問うと、破顔一笑し、「私のしつこさは(学者に)合っていたかもしれないね」と答えた。

 経営者として自らを律するため、出張先には常に数冊を携え、幅広いジャンルを読んだ。愛読書トップに挙げたのは、経営の神様と言われた松下幸之助氏の『道は無限にある』だった。「人の役に立ちたいという探究心、少しでも便利なものを作ろうという思いで仕事に向き合えば、道が開ける。その素晴らしさを明快に示した本だ」と語り、その場で1冊贈ってくれた。

 自他共に認める故郷・久米島の「トップセールスマン」は多くの後進を育てた。

 療養中も泡盛業界、沖縄経済に深い関心を寄せ続けた島袋さん。施政権返還から50年の節目を迎える前年に、沖縄に根差した気骨ある経済人がまた一人旅立った。沖縄の針路をどう描くか、辛口でも明るい展望を示す分析をもう一度聞きたかった。

(編集局長・松元剛)