泡盛文化を国内外に発信 島袋周仁氏死去 経済界や久米島から惜しむ声


社会
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米国向けに出荷された久米島の久米仙「米国ボトル」を手に笑顔を見せる島袋周仁氏(当時社長)=2005年2月22日、那覇市内

 県工業連合会会長、県酒造協同組合理事長など産業界の要職を歴任してきた、久米島の久米仙会長の島袋周仁氏(享年81)が21日に逝去し、経済団体関係者や地元の久米島町から悼む声が上がった。生前、「『買ってくれ』ではなく、『売ってくれ』と言われる酒を造ることだ」と酒造りの信念を語り、県外、海外にも泡盛文化を広めた。

 東京農大醸造学科を卒業後、50年以上にわたって泡盛製造に情熱を傾けてきた。前身の仲里酒造を先代から引き継いだ後、沖縄の日本復帰直後の1975年に沖縄本島への出荷を開始。83年には本土への出荷を始めるなどシェアを拡大していった。

 93年には社名を「久米島の久米仙」に変更。米国や中国など海外への出荷を開始し、積極的に海外へと販路を拡大した。90年代の沖縄ブームを追い風に、泡盛ブームの火付け役の一人として琉球泡盛の全盛期を築いた。一方で、2012年には日本酒造組合中央会の公正競争規約に違反した古酒表示問題で、同社社長を引責辞任した。

 久米島町の大田治雄町長は「県内外に広く久米島の名を広めた。島をけん引してきた方だけに、非常に残念でならない。彼の情熱は、今後も長く受け継がれていくだろう」と語り、島の振興に果たした役割の大きさに感謝の意を示した。

 03~10年に県工業連合会長、99~2010年は県酒造協同組合理事長を務めるなど、「ものづくり」への熱いまなざしは、泡盛業界や沖縄の製造業全体の底上げにも向いていた。

 県工連の古波津昇会長(拓南グループ会長)は「『あなたのお父さん(元県工連会長の清昇氏)から勉強をさせてもらったから、僕は君に教えるんだ』と大変かわいがってもらった。年は離れているが、兄貴のような存在だった」と別れを惜しんだ。

 島袋氏が県工連会長時代に、一緒に県内市町村を回って県産品優先使用のPRに奔走するなど、多くの薫陶を受けてきた。「若い経営者を相手に泡盛にとどまらず、経営のことまで指導をしてくれた。口は厳しいが、優しさを持ち合わせている人だった」と振り返った。

 金秀グループの呉屋守将会長は、島袋会長の長男で現社長の正也氏の結婚式で仲人を務めるなど、公私ともに親交があった。「泡盛を中心に、沖縄の一番弱い工業の部門を支えた経済人だ。親分肌なところがある人だった。コロナで経済が大きく落ち込んでいる中で、持ち前の明るさで引っ張っていってほしかった」と惜しんだ。