島袋周仁さんを悼む 泡盛業界の礎築いた「やればできる」 県酒造組合・佐久本武


社会
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島袋周仁氏(2009年撮影)

 現在の泡盛業界の礎を築いたかけがえのない人が亡くなり、大変残念だ。同業他社だが、復帰直後の泡盛が大変厳しい時代には一緒になって、泡盛を持って飲食店を一軒一軒回り、泡盛を置いてもらうようお願いしたこともあった。島袋周仁さんが県酒造協同組合の理事長を務めている時期に、副理事長を務めたこともあり、一番身近で仕事ぶりを見てきた。仕事熱心でまじめな方だった。

 久米島から出てきて「やればできる」という確固たる信念、自負があったからこそ、泡盛業界の先頭に立ち続けてきたのだろう。泡盛の出荷量が、ピーク時には復帰直後の4倍になるほど成長したことは、島袋さんらの功労だった。

 島袋さんは業界の「ご意見番」的な立場だった。あまり酒は飲まなかったが、酒席にコーヒーで参加し、泡盛の未来について語っていた。

 業界のリーダーとして酒税軽減、原料米調達の要請などに奔走し、発展に尽くしていた。2004年のスマトラ沖地震の際には原料米の生産地として、お世話になっているタイへの恩返しとして、島袋さんが発起人となって義援金を集めたこともあった。

 現在は全国的にアルコール業界の売り上げは厳しく、泡盛の出荷も苦戦している。ただ、若い業界の方々には「飲水思源」として、島袋さんら先輩が築いた礎に立って業界発展に頑張ってほしい。

 島袋先輩が引っ張っていったおかげで今日があります。どうか、安らかにお休みください。

 (県酒造組合顧問、談)