那覇100年の歴史と戦後沖縄政治 求め続けた自治権拡大 沖縄政界をリード


那覇100年の歴史と戦後沖縄政治 求め続けた自治権拡大 沖縄政界をリード
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 那覇市が市制に移行してから、20日で100年の節目を迎えた。琉球処分後、県都としての道を歩み始め、戦争による荒廃を乗り越えながら、沖縄の政治や行政をリードしてきた。その歴史の随所には、自治の実現・拡大を求める動きが顔をのぞかせる。那覇の政治・行政を振り返る。 (大嶺雅俊)

 

■特別区から市制へ

 琉球処分後の1880年、県庁が首里城のあった首里(戦後、那覇市と合併)ではなく、那覇に設置されることが決まり、県都としての那覇の歴史が始まる。本土からの寄留商人の拠点ともなり、旧支配層との対立もあったが、沖縄の商業発展を促進した。

 旧慣諸制度の改革のため、86年に沖縄県区制および郡編成の勅令が公布され、那覇と首里は特別区との位置付けになる。議決機関の区会が設置され、議員も民選となった。ただ区長は官選(後に民選に)で区会議長も兼ね、区会は予算審議に関わる権限しか与えられないなど、自治の仕組みとしては不完全だった。

 他府県で自治制度が整えられる中、沖縄では市制の導入が見送られてきた。だが、政治意識の高まりから差別撤廃、自治権拡大の声が膨らみ、1921年5月20日、那覇・首里の市制が始まった。

 

■米統治への反発

 沖縄戦が始まり、市域の9割が焼失した1944年の「10・10空襲」や45年の激しい地上戦で徹底的な破壊を受け、那覇はがれきの街となった。戦後、壺屋から始まった那覇の復興は市内各地に広がり、その後の発展の下地を作った。

 50年代には、市域の過密状態の解消を図ろうと大那覇市建設構想が計画・始動。54年に首里市と小禄村が合併、57年には真和志市も編入され、現在の那覇市の形がほぼできあがった。

 52年のサンフランシスコ講和条約発効により、沖縄の米統治は維持されることになった。沖縄の基地強化を図る米国民政府は53年に布令「土地収用令」を発出。真和志村を皮切りに土地の接収を県内各地で始めた。54年には軍用地料一括払いの方針が示されるなど、土地問題を契機に島ぐるみ闘争がわき起こる。

 米軍の圧政が続き、自治とはほど遠い状況にある中、県内政界に大きな影響を与える那覇市長選が56年に行われ、沖縄人民党の瀬長亀次郎氏が当選した。日本復帰を唱える反米の「赤い市長」の誕生は、米軍側に衝撃を与えた。戦災都市復興計画への補助中止などで瀬長市政を財政面で圧迫したが、多くの市民が納税し、同市政を支えた。

 反瀬長派は市議会で不信任決議を可決するが、その後の市議選で瀬長支持派が不信任阻止に必要な議席を確保。その後米国民政府は布令改正で不信任可決に必要な議席の引き下げや瀬長氏の被選挙権を剥奪(はくだつ)するなどして、瀬長氏を追放する。

 ただ、この瀬長市長誕生を巡る一連の動きが軍用地料一括払い方針の変更につながるなど、米統治下の沖縄のその後の行方に大きな影響を与えた。

 

■復帰後の発展

 1972年5月15日の日本復帰後、那覇市では安謝港建設や下水道建設、区画整理・再開発などにより、都市基盤が急速に整備された。同年に市が構想を打ち出したモノレールは、およそ30年が経過した2003年に那覇空港―首里間で開通した。

 米軍施設のあった「小禄金城地区」や「新都心地区」は1980年代に返還され、跡地利用が進んだ。民間企業の進出などで大規模な市街地が形成され、地域にもたらす経済効果は返還前よりも跳ね上がった。

 北谷町の「桑江・北前地区」と合わせて米軍基地の存在が沖縄の経済発展の阻害要因になるとの認識を広めた先行事例となった。

 市長を経験した西銘順治氏、翁長雄志氏の2氏が県知事となるなど、那覇市政は県内政治史に名を残す政治 家を輩出してきた。

 前知事の故翁長氏は市長時代から米軍の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ配備や米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設問題への反対を訴え、保守・革新を超えた「オール沖縄」体制を確立した。

 市上下水道局長などを務めたエッセイストの宮里千里氏(71)は「これまで那覇から出てきた政治家を見ても、那覇は政治の中心にあったと感じる。選挙も非常に活発だとの印象だ。市民の政治意識の高さからだろう」と述べた。