<湖城英知さんを悼む>沖縄を元気にした明るさと行動力(稲嶺恵一元知事)


社会
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沖縄都市モノレール「ゆいレール」が開通し、右手を挙げて1番列車の出発合図をする湖城英知社長(当時)=2003年8月10日、那覇空港駅

 1950年に私が東京から名護に移り住んだ時、近所に住んでいたのが湖城英知さんだった。その頃からの付き合いなので、70年余りの関係になる。あれほど元気な人が亡くなられて驚いている。実に残念でならない。

 名護高校の1期後輩でもあって、非常に親しくさせていただいた。東京で大学を卒業し、サラリーマン生活を経て沖縄に再び戻った時も、沖縄相互銀行(現在の沖縄海邦銀行)の営業部長だった湖城さんに情報をもらったり人を紹介してもらったりと世話になった。

 銀行マンとして県経済の発展に尽力するだけにとどまらず、沖縄のためであれば、立場を離れて一生懸命に取り組む人だった。太陽のように明るい性格で非常に面倒見が良く、人望が大変に厚い人でもあった。声がとても大きく、乾杯の音頭を取るといつも盛り上がっていたのを思い出す。

 私が知事在任中に兼任していた沖縄都市モノレールの社長職を彼に引き継いだが、後任は彼しかいないと思っていた。沖縄振興に向けた情熱やそれを実現しようとする行動力を兼ね備え、最適任だった。

 2003年8月に開通した「ゆいレール」の利用促進へ、自ら前面に立ち奔走していた。ゆいレールが県民の交通手段だけでなく観光客の利用も増え、浦添まで路線が延長するまで発展したのは、彼の功績なくしては考えられない。

 2千円札の普及にしろ、かりゆしウエアPRにしろ功績は数え切れない。持ち前の元気さ、明るさで体を張って沖縄を元気にしてきたと思う。私の県知事時代も支えてくれた、太陽のような人だった。

 沖縄に、真面目に一生懸命貢献してくれた人生でした。頑張りましたね。安らかにお眠りください。
 (稲嶺恵一元県知事、談)