有銘政夫さんを悼む 地域に根ざし平和運動 石川元平・元沖教組委員長


社会
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「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」や「くば笠小」などを歌い、オスプレイ配備に歌で抗議する有銘政夫さん(右)と島袋艶子さん=2012年10月、米軍普天間飛行場大山ゲート前

 有銘政夫さんはサイパンで生まれ、戦争を経験し、沖縄に戻ったら故郷の森根(現沖縄市)が基地になっていた。故郷に帰ることもできず、自分を「戦争難民」と呼んだ。

 復帰活動に熱心に取り組んだことは知っていたが、私が直接関わったのは沖縄返還後の1973年、教職員組合活動だった。「やっちー」(兄貴)と慕っていた有銘さんが沖教組委員長になってほしいと思っていた。心の内を聞くと有銘さんは「基地を抱える中部で運動を頑張りたい」と話した。沖縄の歴史を背負った中部で平和運動を頑張ることに自負があった。集会ではいつもクバ笠をかぶり、最前列に座っていた。「戦はならんどー」という、沖縄戦の経験に突き動かされていた。

 違憲共闘会議の議長としても、裁判闘争を通じて国策の理不尽を訴えた。「非戦」ではなく「否戦」を軸に持ち、政府が基地収用のために法律を変えるなどどんな手を使っても折れず、「不屈」の精神を持った人だった。有銘さんは平和活動だけはでなく、中部地区労議長として零細企業の労働者を支援し、組織化も支援した。組合運動は「官」中心になりがちだが、青年団運動に携わった経験が原点なのだろう。地域に根ざした運動をしていた。

 三線や琉歌もたしなんだ。2018年5月に有銘さんのトーカチ(米寿)を仲間で祝った際に、有銘さんが詠んだ琉歌は、妻の美代子さんに贈ったものだった。「若さ肌がなさ 今(なま)や肝(ちむ)がなさ 風車(かじまやー)(数え97歳)ぬひらん(坂) 手とぅい登ら」。それはかなわず90歳で亡くなった。だが人一倍生きていた。

 (元沖教組委員長、談)