基地問題巡り沖縄県との交渉役果たす 振興策を取りまとめる一方、辺野古の県内移設を迫る姿勢も 元官房副長官・古川氏死去


社会
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普天間飛行場

 5日死去した古川貞二郎元内閣官房副長官は、過重な基地負担に対する沖縄の異議申し立てが頂点に達した大田昌秀知事時代に、官邸の事務方トップとして県政との交渉役を担った。省庁をまたいだ振興策のとりまとめに中心的な役割を果たす一方、県側に普天間飛行場の県内移設を迫る姿勢をとった。

 日米両政府が1995年に設置したSACO(沖縄に関する特別行動委員会)を受け、翌96年に県と政府の間に置かれた「普天間飛行場等の返還にかかる諸課題の解決のための作業委員会」の委員長を務めた。同委員会は政府側が県にSACOでの協議内容を報告する場となった。県側からは吉元政矩副知事(当時)らが出席し、各基地の移設を協議した。

 日米両政府は96年12月のSACO最終報告で普天間飛行場の返還に合意したが、名護市辺野古を念頭に本島東海岸沖への移設を条件とした。97年に入ると、移設先となった名護市で海上ヘリポート建設の是非を問う市民投票に向けた動きが活発化する。政策研究大学院大学が聞き取りした吉元氏の証言によると、投票前に政府内で賛成派勝利の楽観的な見方が広がる中、古川氏は懐疑的だったという。

 97年12月に投開票された市民投票で反対票が過半数を上回ったが、当時の比嘉鉄也市長が基地受け入れを表明して辞任した。一方、98年2月に大田昌秀知事は政府の海上ヘリポート案の反対を表明する。県の反対表明に古川氏は「現時点で最良の案」と辺野古移設受け入れを県に求めた。

 当時、古川氏らは県の反対に「海上基地がどうして基地の新設なのか。原点はあくまで普天間の返還。県側が完全に望む形ではないかもしれないが、前進ではないのか」との認識も示していた。
 (塚崎昇平)