【識者談話】古川氏「アメとムチ」の手法を否定 当時の大田県政の提案後押し 江上能義・琉球大名誉教授


社会
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江上能義(早稲田大・琉球大名誉教授)

 1995年に起きた少女暴行事件を受けて沖縄県民の怒りが爆発し、大田昌秀県政(当時)は土地強制使用の代理署名を拒否して国と裁判となり、真っ向から対立した。橋本龍太郎首相は、事務方トップの官房副長官、古川貞二郎氏に指示し沈静化を図った。

 私は以前にインタビュー調査で古川氏に何度も当時の話を聞いた。古川氏は抑止力の観点から地理的な要地にある沖縄への米軍基地の負担はやむを得ないとの立場だが、「金を出すから基地を負担しろ」という「アメとムチ」の手法は絶対にダメだと考えていたと強く言っていた。

 「あくまでも沖縄側が主体的に要請する政策に対応し、後押しする形にしないといけない」。その言葉の通り、古川氏は当時の大田県政が提案した国際都市形成構想を事務方として支援した。その他にも沖縄が提案した国立沖縄高専や国立劇場おきなわの整備を後押しした。当時の政府が沖縄の苦難の歴史を理解した上で県民の怒りをきちんと受け止めて、基地問題の解決に全力で取り組んだことが古川氏の話からよく理解できた。

 古川氏は米軍普天間飛行場の県内移設を沖縄側に受け入れてもらおうと手を尽くした。「ありとあらゆる手段を講じたが、最後はやはり『県内移設』を大田知事にも名護市民にも受け入れてもらえず、うまくいかなかった」と残念そうに語っていたのが印象に残る。