prime

厚みのある直球の句評 岸本マチ子さんを悼む ローゼル川田


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
生前の岸本マチ子さん(提供)

 俳誌「WA」創刊者の俳人で詩人の岸本マチ子さんが7月の末に亡くなられ、8月4日の暴風雨の晴れ間に告別式が行われた。毎月第2日曜に開かれるWAの句会にも昨年末まで参加されていた。句会仲間の一人が今年のうりずんの頃に直接連絡した際「マチ子先生、お元気でしょうか?」と訊(たず)ねると「元気じゃないわよ」と答えられたという。歯に衣(きぬ)着せぬ方なので、ほんとに体調がすぐれていなかったのだと想像を巡らせていた。

 私はWAの句会の一員として十数年間参加しているが、マチ子さんは毎回、句会の合評会では、厚みのある直球の句評をされた。水気をおびたビー玉の撥(は)ねるような笑い声が響きわたるので、「凡人」も「才能あり」もチャラになり皆救われるのである。口語俳句の現代俳句を深めてこられ、個々の新たな眼差(まなざ)しに肯定的で自由度が高く、句会も解放感があった。

 沖縄の慰霊の月に沖縄県現代俳句協会が2003年から毎年、「沖縄忌俳句大会」を開催しており、今年の6月で第21回を迎えた。マチ子さんが中心となって牽引(けんいん)され、全国規模の俳句大会に仕立て上げられた。去る大戦で日本で唯一地上戦となった沖縄は鉄の暴風が吹き荒れ、多くの犠牲者を出し風景も瓦礫(がれき)と化した。その戦を忘れずに、との思いを胸に、平和を希求する俳句大会である。第10回までは全国から三十数名の著名な選者が携わり、1500句に及ぶ応募作があり、俳句界に多大な功績を残した。

 沖縄忌俳句大会を開催継続する中で、俳句の季語に新たに「沖縄忌」が採用されたことは大きな功績だ。季語となった「沖縄忌」は自立しながら、さらに沖縄忌俳句大会と結ばれることにより、深い認識と広がりをもたらしている。

 17年には沖縄県現代俳句協会編集による『沖縄歳時記』が大井恒行氏、今泉康弘氏の協力のもと、10年近くの期間(途中一休みあり)を経て刊行された。マチ子さんも編集委員の一人として尽力し、歳時記のはじめの言葉では「しんしんと肺碧きまで海のたび」という篠原鳳作の俳句を挙げて「こうした先人のご苦労があったればこその『沖縄歳時記』ではないかとおもう」と述べている。

 マチ子さんは俳人としての活躍により、1994年に県内から初めて現代俳句協会賞(第44回)を受賞された。詩人としても活躍し、78年には、詩集「黒風」で第1回山之口貘賞を受賞された。さらに詩集「コザ中の町ブルース」で県内から初めて小熊秀雄賞(第17回)受賞。これまで数多くの俳句と詩集を上梓(じょうし)された。

 折口信夫の「まれびと」論ではないけれど、群馬の山の国から旅立って、亜熱帯の南の海に包まれた島々で生き抜いてこられた。家族をつくり親戚、知人友人たちと交わってきた生活者としてのマチ子さん。俳人、詩人としての表出や創作に突き進んでこられたマチ子さん。アカバナーのエロスを開化させ場所を嗅(か)ぎ取り、島の自然に抱かれても、詩「えれじい」の原風景のように群馬県伊勢崎のはずれを流れる広瀬川なのだ。その川面は沖縄の海原と目合ひ(まぐわい)、意識は魂を超えて光の波がふたつを重ね合わせるので着地から解放されていくのでしょう。

 たくさんの色々をありがとうございました。合掌。

 (第45回山之口貘賞詩人、俳人)

   ◇    ◇

 岸本マチ子さんは7月29日に死去、88歳。