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<メディア時評・高校生の政治活動規制>息苦しい教育現場 表現の自由は等しく保障

 選挙権年齢の引き下げに合わせ、愛媛県立高校では新年度から校則を改正し、校外の政治活動に参加する生徒に、学校への事前届け出を義務化することになった。そもそも以前から日本では、文部科学省が校内外での政治活動を原則禁止にしてきた経緯がある。そうした意味で、この厳しい制約は、一部では以前から指摘されてきた問題であるといえるわけだ。それではなぜ、これほどまでに教育の場での表現活動に神経質で、かつ制約的なのか。

もともとは禁止

 今から半世紀近く前の1969年、当時の文部省は学生運動の激化の中で、「高等学校における政治的教養と政治運動」と題する通達を出した。そこでは、未成年者が政治的活動をすることを、「教育上望ましくない」として禁止した。その後も一貫してこの方針は維持され、校内での反戦署名が禁止されたり、文化祭で原発を取り上げることも忌避される事態が報告されてきた。
 そうした流れがあった中で、文科省は2015年10月に、選挙権年齢引き下げを受けてこの「69通達」を変更、校外の政治活動について解禁をすることになる。ただし翌16年1月、事前に学校に対して政治活動に参加することを申告することを求める〈届出制〉については、「教育目的達成の観点から必要かつ合理的な制約を受ける」として容認するとの問答集を出した。これはまさに、基本的な考え方には変更がないことを示したともいえるだろう。
 冒頭に紹介した愛媛県の場合、政治活動が公選法違反にあたらないかを担任が注意喚起するとの意図を強調、高校によっては口頭で、日程や満年齢、場所の県内外しか聞かないとしている。18歳未満の非有権者の選挙活動は公選法で認められていないため、こうした違法行為を年齢確認によって未然に防止するためとされている。
 県内高校の校則に盛り込まれた文案のもとは、05年12月に開催された県研修会で配布した文書とされており、そこでは「【生徒心得】3 選挙運動や政治的活動について(1)校内での選挙運動や政治的活動については、原則禁止する(2)校外での政治活動は保護者の許可を得て1週間前までに届け出る」とある。そしてこれらの校則に違反した場合、最悪では退学処分があり得るという。全国的には、同様の規制に踏み切った教育委は、報道によると27に上るという。

制限は当たり前?

 こうした制約は、生徒の思想信条・集会・表現の自由を制約する可能性が大きいと指摘されているわけであるが、日本社会ではそもそも憲法上保障されている権利や自由に対して、「子ども」は制約されても致し方ないと考えてきたといえる。とりわけ、政治的活動や表現行為については、禁止や制限するのが当たり前としてきた感すらある。
 こうした考え方は子どもに対してだけではなく、受刑者や公務員についてより明確だ。かつては「特別権力関係」と呼ばれ、公務員の勤務関係や在監関係は、一般国民と違って公権力と特殊な関係にあるので、法律の根拠がなくても憲法で保障されている人権が制限でき、裁判に訴えることもできないとされてきた。例えば、国公立の教員を含む公務員は政治的活動が制限されているし、受刑者が受発信する文書の検閲が認められている。
 最近では「原則は一般人と同じ」と原則と例外の関係のねじれがようやく戻りつつあり、例えば監獄法が「被収容者処遇法」と名称変更したことに表れる通り、新聞やテレビなどの「時事の報道に接する機会を与えるように努めなければならない」というレベルまで回復してきてはいる。そして国の包括的支配権は認められず制約には法的根拠が必要で、司法救済も受けられると考えられるようになった。
 そうなるとむしろ、私人間の関係であった学校における学校(あるいは教員)と生徒の関係の方が、より制約的な状況すら生まれている。しかも教育現場においては、教員の政治的活動の制約、検定・採択制度による教科書内容や使用教科書選択の制約、さらには日の丸・君が代に代表されるような教員の思想信条の自由の制約と、そもそも表現の自由に対する制約が二重三重に覆いかぶさっている息苦しい世界であることが分かる。

「未熟な存在」

 さらには「子ども」に対する表現規制を積極的に認める法体系が存在していることも影響する。少年法による加害少年に対する推知報道(実名・顔写真等の公表)の禁止は、子どもを〈客体〉とする制限事例だし、映画鑑賞の年齢制限や一部雑誌の区分陳列販売といったレーティングやゾーニングによるアクセス禁止は、子どもを〈主体〉とする制限事例だ。これは、子どもを未熟な存在として、社会全体で守ることが発想の基本になっている。
 そしてこうした、そもそも学校や教員自体の表現の自由が制約的であることと、子どもの表現行為が制約的であることから、いかにも高校生(あるいは小中学生も含め)の政治的表現は、学校の庇護の下に行われることが当然であって、それは子どもを守る上で必要不可欠であるという理屈がまかり通ってきたと考えられる。その場合、子どもが行う表現の行為の善しあしは、彼・彼女が判断するのは未熟であって難しいから、代わりに教員がしてあげるということになる。
 しかし、こうした発想自体が誤りであって、憲法において大人も子どもも、したがって教員も生徒も、等しく表現の自由は保障されている。その表現行為には当然、政治的な表現も含まれるし、社会・コミュニティーの一構成員として、同等に情報を受け取る自由も、そして意見表明をする権利も有するのである。もちろん、教員が教育的指導として、社会のルールを教えることはあっても、それは表現行為の制約とは似ても似つかないものであることを、明確にわきまえる必要がある。
 沖縄県内においては、すでに多くの子どもたちが県民集会等に参加していることから、こうした問題は表面上発生していないように見えがちであるが、発想自体は根底に潜んでいる可能性があるだけに、常に注意が必要だ。
(山田健太 専修大学教授・言論法)
(第2土曜日掲載)



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