芸能・文化

<メディア時評・「取材の自由」軽視>「知る権利」を弱体化 報道界、沖縄をスルー

 この国では、取材の自由があまりに軽んじられていないか。
 地元紙の24時間態勢の取材が続く米軍北部訓練場のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設予定地で、本格工事再開初日の7月22日、東村高江の現場で一時的とはいえ取材陣の現場立ち入りが制限された。また、小池百合子東京都知事は、8月5日の事実上第1回の記者会見で、記者からの質問を1人1回に制限し、守らない記者には次回から質問させないと忠告した。

一段低く

 国連の憲法である自由人権規約では、収集・発表・伝達のすべての過程において、情報流通が保障されて初めて、表現の自由は実現するものだとしている。一方で、日本国憲法では21条で極めてシンプルに「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と書かれているがために、発表の前段階でもある〈受け求める権利〉が憲法上保障されているかどうかが、法律上長く争われてきた経緯がある。
 その中で「知る権利」という考え方が定着した。その具現化としての情報公開法が制定され15年以上になるが、法で定められているのは政府の説明責任義務(アカウンタビリティ)止まりである。そこでは、市民の積極的権利としての情報開示請求権は認められず、国が保有する公的情報はあくまで「見せてもらう」関係に押しとどめられている。
 これを新聞に当てはめると、取材・報道・頒布の自由が何一つ欠けることなくきちんと守られることで、初めて十分なジャーナリズム活動が実現する。しかしながら、「報道の自由」が「表現の自由」に含まれると明確に位置付けられるのに比して、「報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値(あた)いするものといわなければならない」との1969年の最高裁判決がいまだ生き続けている。「取材の自由」は、「報道の自由」よりも一段低い保障しか与えられていないということだ。

「力関係」

 1948年の第1回新聞週間標語で「あらゆる自由は知る権利から」が掲げられたほか、53年にも「報道の自由が守る『知る権利』」が選ばれている。報道界としては「知る権利」の重要性を認識していたものの、法的な重要性が法律解釈上も社会的にも十分理解されてこなかったということになろう。
 その結果、もっぱら公権力との力関係で情報の収集がなされ、強面(こわもて)の取材対象者に対しては有効な対抗策を有しないで今日に至っている。具体的には「取材機会の確保」の問題で、情報収集の「時・所・方法」を取材者側が主体的に設定できるかということだ。そして行政機関は、合理的な拒否事由がない限り「取材応諾義務」があるとの理解が、法解釈も含め社会に定着しなければ、実効的な取材の自由の確保はありえない。記者が希望するタイミングと方法によって、行きたい場所に行け、聞きたいことが聞けることによって初めて十全な報道が可能になるからだ。
 それは、発表の自由では当たり前に貫徹されている。好きな時に、好きな場所で、好きなことを、好きな方法で話すことができるのが、「表現の自由」そのものであると理解されているからだ。同じことが、収集活動においては尊重すらされず、むしろ取材を受ける側が望むかたちで「取材に応じてあげる」状態が常態化している。
 冒頭に挙げた事例に即して言えば、事件が起きている現場への立ち入りを認めず、厳しい質問による事実追及を許さず、結果として「事実」を隠蔽(いんぺい)する行為は「知る権利」を侵害する行為ということにならないか。
 大きな社会的問題となっている北部訓練場のヘリパッド工事を巡っては、緊張が高まって以来、地元報道機関は常駐して政府・米軍の動向を「ウオッチ」していた。そうした中で警察は、すでに現場にいる場合は居続けることを黙認しつつも、いったん離れたら立ち入りを認めない対応をした。通信手段も限定され、物理的に同一人物が取材を継続することは不可能な中にあって、事実上の完全排除ということになる。
 加えて政府は、当該県道に関連して県が公開を認めた米軍の演習にかかわる文書についても、非公開を県に指示するなど、一貫して「ありのままの事実」を覆い隠すことに熱心だ。こうした態度は、民主主義社会の根底を揺るがすものであり極めて深刻な事態である。

偏向批判

 そしてとりわけ沖縄の場合は、こうした「取材の自由」軽視の根底に、沖縄メディアを排除する思想が見え隠れする点が厄介である。
 沖縄のメディア地図は特異だ。全国紙(朝日・毎日・読売・産経)が現地印刷されていない一方、地元県紙が2紙並立している。さらに放送でも、受信料支払い率が特に低いなどNHKとの距離感があるとされ、民放では日本テレビ系列が存在しない。そのため、県内では政府の立場に近い編集方針のメディアが圧倒的に少ない。これが、現政権が沖縄メディアにいら立つ要因の一つではないかと想像される。
 沖縄メディアへの「偏向」報道批判が一気に顕在化したのはここ5年である。それまでは、取るにたらない戯言(たわごと)として無視されてきたきらいがある。それがネットの力で一気に拡散したうえに、政府と保守系メディアによる沖縄県政および沖縄紙批判が重なることで正当化され、まさに市民権を得る状況にまで拡大・定着してきている現実がある。
 それがゆえに、沖縄の「現場」である辺野古や高江の現地で取材陣が不当な制約を受けてもそれが一般化されることなく、報道界全体ではスルーされる状況が続いているように思われる。しかも日本では、報道の自由に対する圧力は大きな問題になるが、本来、同等に大切なはずの取材の自由の保護に対しては、「相手のあることだし多少の制約はやむなし」の雰囲気がある。しかし、こうした事態は、間違いなく報道機関全般の取材の自由を蝕(むしば)み、社会全体の知る権利を弱体化させるものだ。
(山田健太 専修大学教授・言論法)



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