娼妓の亡霊、大入道、ヤギの精・・・大正元年、沖縄で突如盛り上がった“実話系”怪談<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>1


娼妓の亡霊、大入道、ヤギの精・・・大正元年、沖縄で突如盛り上がった“実話系”怪談<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>1
この記事を書いた人 Avatar photo 熊谷 樹

日本の夏の風物詩と言えば怪談。この時期になるとテレビで怪談話の特番が放送されたり、あちこちの商業施設でお化け屋敷が開設されます。背筋がぶるっと震える怖い話で涼を得ようとするのは、今も昔も同じようです。

明治から大正に改元した1912年8月5日、琉球新報で突如「怪談奇聞」という連載がはじまりました。娼妓の霊、女学生が大入道に変化した話、ヤギの精に出くわした話-。読者に投稿を呼び掛け集めた怪談・幽霊譚を同年9月8日まで34回にわたって連載。内容の多くは投稿者自身の体験談や伝え聞いた“実話系”怪談です。連載3回目にして「募集するやたちまち人気を呼びすでに五六種の投書を得」たとあり、その人気ぶりがうかがえます。

大正天皇が即位し、孫文が中華民国の成立を宣言し、イギリス船籍・タイタニック号が沈没した1912年。沖縄もまた、明治30年代からの風俗改良運動、旧慣改革で日本への同化が進められ、近代化・日本化と差別の間で揺れ動いた時代でした。「琉球王国」から「沖縄県」へと変化していった時代の“リアル”な怪談を紹介します。

文章は当時の表現を尊重していますが、旧字や旧仮名遣いは新漢字、ひらがなに変換し、句読点と改行を加えています。

怪談奇聞(一)
娼妓の亡霊に頼まる

明治二十八年、私が泊の学校の教員をしていた頃である。渡地(わたんじ)遊郭石頂(いしんちょ)の付近、荒神前という貸座敷に、私は知人の某氏を面会に行った。まだ宵の口で人通りも多い。今しも石頂の下の何とかいう貸座敷の門前を通ると年の頃二十三、四の背のスラリとした別嬪(べっぴん)が思案顔で立っている。丁度夏の真っ盛りで石頂の辺り数多(あまた)の納涼客が集まり、付近はよほど賑やかである。

戦前の那覇港内渡地(ワタンヂ)。山原船が停泊している。左方煙突のある囲いは監獄(刑務所)(那覇市歴史博物館提供)

この二十三、四の別嬪が正しく幽霊であったとは夢想だに浮かばない。未だにその形は忘れぬが髪はピカピカ光り銀の簪を差し、色はあくまで白く着物は芭蕉衣(ばしょうい)の引下(ひきさぎ)の模様であった。私は別に怪しみもせず別嬪のそばを通ると彼はなれなれしく言葉をかける。

「自分はこの屋の娼妓(しょうぎ)ツルというもので、私の紺地の着物がこの屋にあるが、それは私の妹カメに渡してと貴方からどうが抱母(アンマー)に告げてください。かねがね抱母には言ってあるが未だに渡さない。ひとつ貴方より十分に話して下さい」と頼むこと切である。

見も知らぬ男に無遠慮に頼む変な奴だと思ったが、私は正直に彼の依頼をそのうちの抱母に告げた。するとそのうちの家族共は一斉にドッと笑い「似てはいませぬ」「だまされませぬ」とか妙なことを言う。人を馬鹿にしていると私は立腹してそのうちを出たら、門には依然として別嬪は立っている。

私はこいつに一本やられたのだと「オイ、よくも私をだましたな」と言って、強いて呼び止めるのも聞かず目的の荒神前に行った。あいにく友人は来ていなかったので仲前よりそのまま引き返して最前の門前に来るとやはり別嬪はいる。そしてまたまじめに先刻の依頼をするからどうもおかしなこととは思いながら、今度は私も大まじめになりて抱母に面会した。

「決して嘘じゃないどんな形のこういう装飾した女だ、嘘と思うなら門まで誰か出て見よ」と言ったら、抱母をはじめ家族のものども一斉に青くなり、抱母が座っている周囲に集まりて震えだした。それまで私も何のことやら分からない。抱母を始め家族のものらが「ほんとうのことですか」としきりに聞くから「嘘を言うものか嘘と思うなら連れて来る」と立とうとすると、家族ども、前後左右より私を捕まえ無理やりに押さえて座らす。

いやはや何のことやらいよいよますます分からなくなったと「一体何で騒ぐか」と聞くと抱母がいうには、ツルという女はこれより三十日前、肺病で死んだものという。紺地の着物は実際抱母が格護し(かくご)ているそうで、私の前で早速亡霊の注文通り実妹なるカメに渡したのである。

那覇港内にある現在の渡地村跡(左側)。右奥に浮かぶ小島が御物グスク=2024年8月14日、那覇市通堂町

かれこれして私はその屋を出たら、亡霊君やはり門前に立っている。先刻の面持ちとは打って変わり「誠にありがとうございました」と礼を述べる。転んでも男一匹吾輩、亡霊くらいに敗けるものかと好奇心に彼の手を握ったらニヤリと笑う物凄さ。しかも握った手は氷のように冷たい。

私は思いきって「実際お前は死んだ人か」と聞くと顔を伏せたまま答えない。「これで失礼します」と私の手を振り放って何処にか消えてしまった。私は後ろを引かれるような心持ちで逃げるように帰った。私は右の事実を一生の不思議と思っている(某氏談)

記者曰く、この種の怪談奇聞を募る。読者諸君のうち、これまでに一番不思議に思われる事実を本社怪談奇聞係宛にどしどしご投稿あらんことを希望す。

「怪談奇聞」(一)=大正元年八月五日付琉球新報三面

怪談の舞台 渡地村

那覇の通堂町(現・那覇埠頭)の一角にあったかつての小島。明治以降に埋め立てが進められ、大正後期には完全に埋め立てられました。渡地村には17世紀後半から首里王府によって遊郭が公的に置かれていました。陸地(通堂)から渡地村にかかっていた橋の一つが「思案橋」で、遊郭に向かうかどうか思案したために名付けられたといわれてます。

(次回は8月20日に掲載)