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<メディア時評・記者の倫理>問われる高潔性 プロとしての規範確認を


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 昔なら「事件記者」、少し前なら「クライマーズ・ハイ」などのテレビドラマや映画を見て、記者って格好(かっこ)いいなと思い職業選択をする人がいた。最近なら、米映画「ニュースの真相」「スポットライト」は、いずれもジャーナリストあるいはジャーナリズムを正面から問う作品だ。しかもそこではジャーナリストの「高潔性」が問われており、生半可な気持ちでは務まらない職業であることが分かる。

 そして、昨今の事件被害者の匿名性をめぐる議論や貧困報道をめぐる騒動も、まさに「よかれ」と思って自信を持って行った報道に対し、一般市民から疑義が呈されている。このこと自体、メディアの信頼性が損なわれていることと裏表の関係にあると思われ、言論報道機関は改めて自らの姿勢を問い直す必要がある。

正確性と公正性

 現在、多くの国で一般的に語られているジャーナリズム倫理としては、正確性(真実性)、公正性(独立性)、多様性、人道性(人権配慮)が挙げられることが多い。

 第1の「正確性」は、「真実性」とも呼ばれる、最も重要なジャーナリズム活動の基本原則である。文章作法の基本と言われる「5W1H」(いつ・誰が・どこで・何を・どうした)も、この正確性を担保するための具体的な所作と言えるだろう。

 ただし、記事を発表するに当たり、関連するすべての証拠を集めきることは、一般には不可能であるし、それすらも時間の経過の中で結論が変わることも少なくない。だからこそ、ここで大切なのは、「真実追求」の努力であり、「悪意」がなく、「公憤」に基づく報道であることだ。

 ジャーナリスト個人として、あるいは媒体として、社会正義の実現のために事実を見つける最善の取材を尽くし、隠すことなく可能な限りありのままを伝えようとしたか、ということになる。もちろん、報道にある種の「ストーリー」は必要であるが、それがこじつけであれば「誤報」になる危険がある。一方で日本の報道では、客観中立報道の名の下でストレートニュースにこだわるあまり、事実の提示はあるものの何が問題で何を言いたいのかが分からない、という問題指摘もなされている。

 第2の「公正性」は元来、ある主張を報道した場合、それに反論する機会を違った主張の者に与えることだったり、社会における少数派の考えを拾い上げるという意味合いで用いられてきた考え方である。そしてまたこの公正さを担保するには当然、「独立性」が必要であって、編集権が外部から脅かされないとともに、一定の内部的自由が確保されていて、記者が職場において自由な思考と発言のもとに記者活動に当たれることが大切だ。

多様性や人道性

 そしてこれは第3の「多様性」の確保とも関係する。これらはいずれも、抽象的な概念としては理解しやすいとも言えるものの、実際の編集現場で実行するには難しい課題だ。なぜなら、個人として多様な価値観を滋養することは、記者の資質として求められることであるが、それと発行物において多様性が確保されることとは別であろう。あるいは、新聞社においても、特定の思想や主張が明白である場合、それに反する出版物を刊行する義務を負うとは考えられない。

 そうなると、1つの紙面で社会の選択可能性として、さまざまな事実・意見の提示は必要であるとしても、言論の多様性はむしろ報道界全体で維持すべきものであるともいえる。そうだとすれば、新聞社の数の多元性も一定程度保障されることが重要だ。

 第4の「人道性」は、例えば隣国との関係をことさら悪化させるような出版活動を戒めるものと言えるだろう。日本でも昨今、中国や韓国のことをことさら悪いイメージで伝える出版物が新聞社系出版社も含め数多く刊行され、それらは嫌韓嫌中の「ブーム」を作った要因とも指摘されている。こうしたいわばキャンペーン的な出版活動は、倫理的に「人道性」の観点から問題があるのではないか、ということである。あるいは、テロはもちろんであるが、戦争をことさらに煽(あお)るような報道活動も、同様の理由から倫理上問題になる可能性があると言えるだろう。そこでは当然、「国益」とは一線を画したジャーナリズム活動が求められることになる。

誠実さの体現

 そしてこれら報道倫理を包括して、記者の「高潔性(インテグリティ)」と謳(うた)われることがある。特に最近、多くの分野で言われる職業倫理を示す言葉である。例えばスポーツ界においても、ドーピングや八百長、ハラスメント・差別や競技団体のガバナンス欠如に対し、高潔性が厳しく問われた。

 同様に今日のジャーナリストにおいて、剽窃(ひょうせつ)といった不誠実の極みである言語道断の行為のみならず、透明性の確保としての情報源の明示や引用の仕方も含め、いかに正直に、誠実さを体現するかが求められているからだ。さらにそれは、組織的な「見える化」の制度作りとして、いかに読者の苦情に応え、誤りを迅速かつ丁寧に紙面化するかなど、説明責任の具体化につながっていく。

 こうした「条件」をクリアした先にあるのが、職業としてのジャーナリストであるはずだ。デジタル時代を迎え、インターネットという発表の場を得た市民にとって、誰もが表現者になれる時代がやってきた。それは同時にプロ不要の時代とも言える。あるいは、全く逆の側面で言えば、誰もが情報キュレーターであり編集者・記者であるとも言えるだろう。

 そうした中で、プロとしての使命感に基づくジャーナリズム活動を支える倫理規範を、改めて確認することが強く要請されているのではないか。
 (山田健太 専修大学教授・言論法)
(第2土曜日掲載)