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<メディア時評・「言論の自由」と権力>憲法上の市民の権利 差別発言の擁護許されず


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 アイドルグループ欅(けやき)坂46の衣装が一部で話題になった。10月22日のハロウィーンイベントで着用したものが、ナチス親衛隊の制服と似ていたのが発端だ。

ナチズム礼賛

 もっとも同グループは、昨今のアニメ・ミリタリーブームなどから、同路線をとっているとされており、今回の衣装もその一環と想像される。とりわけ帽子の紋章デザインは酷似しており、ナチズムを礼賛するものとみなされても否定しがたく、社会のロールモデルとなるべき人気グループが身に着けることは許されまい。こうした状況を許した運営会社が社会的制裁を受けるのは当然と思われるが、ここでより問題としたいのは社会の反応が微妙に違うことだ。
 すなわち、ネット上の即席アンケートでも、「表現の1つとして許容される」や「問題ない」との回答が過半を占め、当該グループの対応も深刻さを感じさせるものとは言い難い。伝えられているところでは、謝罪要求があって初めて対応したとされているほか、その謝罪文もサイト上でポップアップされるなどの「工夫」がなされているが、その分、印刷をしようと思ってもできないなど、すぐ消える仕組みになっている。
 そして何より、新聞・テレビの報道も、英紙ほか海外メディアで話題になっていることをニュース化し、米国のユダヤ系団体が抗議をし、欅坂46側がこれを受けて謝罪したことを報じているにすぎないからである。
 そこには、何がなぜ問題であるかが抜けており、それによって社会において問題の共有はなされず、また将来への教訓にもなっていない。実際、所属レーベルのソニー・ミュージックエンタテインメントは、系列会社で近い過去にほぼ同様の問題を起こしているにもかかわらず、その経験は生かされていないことになる。その結果、こうした差別表現によって誰が傷ついているか、あるいはこうした思想が社会に蔓延することによってどのような事態が引き起こされるかの想像力が、社会の中に働かないという事態が生じている。

「土人」発言

 そしてこれと同じことは、同時期に沖縄でも生じた。10月18日に米軍北部訓練場のヘリパッド建設反対の抗議行動の現場でなされた、大阪の機動隊員による「土人」「シナ人」との差別発言だ。
 これらの言葉は歴史的に差別語として認識され使用されてきたのであって、それゆえに当事者である沖縄県民が即座に反応し、強い怒りを表明しているわけだ。にもかかわらず、日本社会全体の反応は明らかに異なる。警察派遣元の松井一郎大阪府知事は、「どっちもどっち」「出張ご苦労様」と発言を事実上肯定する発言を繰り返しているほか、沖縄担当大臣である鶴保庸介議員は国会答弁で「差別とは断定できない」と、一貫して差別発言との認識を否定する態度をとっている。
 さらに同議員は「言論の自由はどなたにもある」とも答弁しており、これは安倍首相が自身や自民党議員の発言を「言論の自由」ということと通底する。そこには、憲法が保障する言論・表現の自由はあくまでも市民的自由と呼ばれる、個々の市民に保障されたものであるとの理解が欠如している。そして政府や公務員は、保障される側ではなく保障する側として、自由を守る義務があるのであって、そもそも憲法が公権力の恣意(しい)的な権力行使を縛るもの、という基本的な性格すら意図的に無視しているとしか思えない。
 そしてこうした状況を支えているのがメディアの報道ではないか。とりわけ大阪のテレビメディアは、もともと悪いのは沖縄住民・反対運動側というスタンスから、発言容認の姿勢を示すものが少なくないほか、ネット上では従来からのいわゆる「沖縄ヘイト」の延長線上で機動隊擁護論が渦巻いているのが現状だ。一方で多くの新聞は、問題発言があったという報道をしている一方で、松井知事や鶴保大臣の発言をそれなりのスペースで「そのまま」伝える結果、「そうか、問題ないのか」という認識を、読者間で増やす効果を生んでいる可能性が高い。

市民的自由

 抗議行動においても、誹謗(ひぼう)中傷や末端の個人をさらし者にする行為、抗議を目的化した行動は控えるべきだろう。しかし原則は大切だ。それは、抗議活動が市民的自由の発露として最大限認められるべきものであって、そのために公共のスペースが一時的に占有されたり、場合によっては私的財産が部分的に侵害されることがあっても、それは公共の場での言論公共空間の確保という大目的の中で許容されなければならないということだ。
 そしてこうした市民的自由は、とりわけ民意を直接的に伝えるという意味で、表現の自由の行使として捉えられるものであるし、場合によっては政治的権利としての請願権の側面も持つだろう。いずれにせよ市民的自由である以上、現場で警備に当たる警察にはないし、ましてやそれを管轄する行政権者は持ちえない。
 そうであるならば、公権力と市民の関係の中で、両者の発言が「どっちもどっち」はあり得ないのであって、市民に最大限の表現の自由が憲法上保障されているのに対し、公権力側には自由な表現が許される余地はなく、むしろ多少の罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)も含めて真摯(しんし)に受け止める関係にあるということになる。
 あってはならない差別発言を、大阪の県民性とか沖縄の過剰な被害者意識のせいと曲解してごまかし、曖昧にやり過ごすことは、結果的に社会の差別構造を固定・助長し、差別意識の蔓延(まんえん)につながる。同じ過ちを繰り返さないためには、きちんと問題性を明らかにし、将来への教訓として残していくことが必要だ。そのために報道機関は、こうした基本的な公権力と市民の関係性の理解とともに、足を踏まれた痛みを想像する力を、広く読者・視聴者が共有できる状況を醸成していく責務がある。
(山田健太 専修大学教授・言論法)