山口・長生炭鉱「刻む会」 2人の遺族と面会


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事故直後に合同葬儀が行われた山口県の寺の写真を手にする大城惣助さんの長男惣徳さん(右)と「長生炭鉱『水非常』を歴史に刻む会」の内岡貞雄共同代表=30日、浦添市内

 1942年に発生し、186人が死亡した長生炭鉱(山口県)の水没事故で、現在も海底下の坑道に残されている遺骨の収集に向け、犠牲者の遺族を捜している「長生炭鉱『水非常』を歴史に刻む会」の内岡貞雄共同代表が30日、県出身犠牲者の親族と面会した。犠牲になった県出身者は5人で、内岡さんはこのうち、名護市出身の大城惣助さん=事故当時(41)=と新垣永幸さん=同(40)=の親族が県内に在住していることを突き止めた。

 内岡氏が面会したのは、大城さんの長男惣徳(そうとく)さん(78)=浦添市=と新垣さんの兄の孫の新垣砂雄さん。新垣さんの名前は事故の資料に「永光」と記されていたが、家系図で「永幸」であることが分かった。大城敬人名護市議の協力で、2人の出身地の区長らから情報を集め、面会が実現した。

 惣徳さんによると、惣助さんは満州事変で出兵した後、沖縄には戻らず山口で暮らしていた。惣徳さんは長生炭鉱があった山口県宇部市生まれで、事故当時は4歳。事故後、一家の大黒柱を失ったため、母親と沖縄に帰省した。惣助さんが山口県から出兵して保証人が探せなかったため、戦後は援護法の適用が受けられず、恩給もなかったという。

 惣徳さんは幼かったため、惣助さんの記憶はないという。73歳で他界した母の貞子さんから事故のことを聞かされており、遺骨が収集されていないことも知っていた。惣助さんの墓は出身地の名護市安部にある。浦添市内の自宅で内岡氏と面会した惣徳さんは「33回忌も終わっていたので、ピンと来ない。しかし、山口は生まれた所でもあるので、まずは行ってみたい」と語った。