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<メディア時評・キュレーションサイトの闇>ネット企業にも責任 メディアを鍛え、育てよう


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 ディー・エヌ・エー(DeNA)が運営する医療情報サイトが発端となり、同社をはじめリクルートなどの「キュレーションサイト」が軒並み、非公開や1次利用停止に追い込まれている。ここには、ネットメディアが持つ本質的な問題が含まれている。

まとめサイト

 キュレーションは、単に情報を集約するという機能を指すのではなく、本来的には、その中身を確認し、価値を判断して、適切な方法・手段によって提供するという総合的な機能を指す。リアル社会で最も典型的かつ伝統的なキュレーションを業とする職業は、博物館の学芸員(キュレーター)だ。日本でも国家資格として認められた専門職だが、例えば美術館で、きちんと調べもせずに自分の主観や面白そうだからと収集した美術作品が贋作(がんさく)だったら問題だし、それをさも本物のように展示したら、キュレーターとして完全に失格だ。
 しかしネット空間では、キュレーション作業にこうした緊張感がほとんど存在しない。むしろ、内容の正確性や信頼性を担保しないと、わざわざ断り書きを入れているほどだ。いわば素人が情報をネット上で適当に集め、その真偽を検証することもなく掲載し、時にアクセス数が増えるように内容を改竄(かいざん)までしていることが明らかになっている。
 現在の情報爆発の状況の中で、「まとめサイト」や「検索サイト」なしでは、なかなか自分が欲しい情報に行きつけないのが実態だ。情報の海から、一定のアルゴリズムに基づきユーザーが欲しているであろうサイトを見つけ出し、順位付けまでして示しているのが検索サイトで、これは最もシンプルな形のまとめ作業に違いない。そして私たちは、こうしたキュレーションの結果表示される情報が「正しい」と信じ、それに頼って情報アクセスをしているのである。
 ビジネスではそれを逆手にとって、特定の情報のアクセス数を増やす工夫を行い、広告収入に結び付けているということになる。したがってサイト制作者(運営者)は、ユーザー誘引の能力という意味ではプロに違いないが、情報の中身(コンテンツ)の正しさを担保するという意味での専門知識や能力は、これまで必要とされてこなかったということになる。現在のネット上では、うわさ話がキュレーションといった裃(かみしも)を着ることで、さも信頼性のある情報であるかのように一人歩きすることを認める状況が作られている。

溶け込まし広告

 二つ目の問題はユーザーを欺く広告の在り方だ。放送では法律によって広告と番組を区別することが決められている。新聞や出版も、間接的ではあるが法律の縛りの中で記事と広告を分けることが求められている。もちろん、これらの分野においても最近は、記事体広告(アドバトリアル)と呼ばれる、記事の体裁をとってはいるもののスポンサーが付いている紙面が少なからず存在する。番組の中でも、プロダクト・プレスメントと呼ばれるスポンサーの意向に沿って商品を意識的に画面に登場させることが一般化する状況にある。しかしこうした場合においてすら、ユーザーに分からないようにこっそり「溶け込ませる」広告はよくない、という原則が存在する。
 一方でネットの世界ではむしろ逆だ。法による制約がないせいもあるが、むしろユーザーにとってネット利用時にストレスフリーな広告であることが求められる傾向にあるといえるだろう。もちろん、意図的にユーザーを騙(だま)すようなステルスマーケティング(こっそり広告)が批判されたこともある。食べログ・サイトであった、いわばサクラによる投稿での評判操作がそれにあたる。しかし今回の事例もそうであるが、キュレーションサイトにおいては、特定の広告主に有意な情報の並べ方やリンクによる誘引は、むしろ「当たり前」のものとして活用されていることになる。
 また、アクセス履歴の収集が企業に広範に認められている結果、個人あつらえ広告といえばポジティブな印象になるものの、恣意(しい)的に選別された情報の提供が、ネット社会ではむしろデファクトな状態だ。そしてこれらの広告手法によって、検索やまとめサイトは成立しているといっても過言ではあるまい。

プラットフォーム

 これまでは新聞を代表するマスメディアが、社会の中のベスト・キュレーションメディアであった。なぜなら、プロの記者あるいは編集者が、専門知識と経験に基づきその情報の真偽を確認し、社会的責任の中で価値判断をして報道を行ってきたからだ。しかし最近は、こうした既存マスメディアを「嘘(うそ)つきメディア」として全否定し、編集を介さないネット情報こそが「真実」として受け入れる傾向が続いている。
 しかしこの風潮こそが、今回の事件を結果的に引き起こしているのではないか。従来は情報の媒介者(あるいは伝達者)は内容に関与しないことが原則とされてきた。それは、出版における印刷会社や書店が、本の内容に基づき流通をストップすることはよくないし、逆に内容に責任を求められては商売ができないということがあったからだ。
 それと同様に、ネットにおけるコンテンツプロバイダーもまた、情報の「場」の提供者として内容に責任を負わないことを旨としてきた。まさに、DeNAもリクルートも、ヤフーもグーグルも、みなプラットフォーム事業者であって、むしろ内容に関与しないことが表現の自由を守るし、それが役割であると社会的に認知されてきたからである。
 しかし時代は移り、情報流通に大きな影響を与え、それがネット世論の形成ひいてはリアル社会のユーザー行動を左右するまでになっているプラットフォーマーが、単なる情報の運び屋という時代は終わっている。ネット企業も、その業務内容によってはメディアとしての社会的責任を自覚することが必要であるということになる。受け手である個々人の情報リテラシーの滋養はもちろん大切だが、一方で責任ある「メディア」を鍛え育てることが必要だ。
 (山田健太 専修大学教授・言論法)