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<メディア時評・総裁選報道 自民介入>政権批判封じ込め 法的根拠なく表現規制

自民党が総裁選に関し新聞・通信各社に送付した文書

 嫌な時代から、怖い国になってきたとの思いを強くする。8月28日に自由民主党本部総裁選選挙管理委員会委員長・野田毅名で「総裁選挙に関する取材・記事掲載について」のお願い文書が各報道機関あてに配布された。そこには以下の具体的な要請内容が記されている。

 「1、新聞各社の取材等は、規制しません。 2、インタビュー、取材記事、写真の掲載等にあたっては、内容、掲載面積などについて、必ず各候補者を平等・公平に扱って下さるようお願いいたします。 3、候補者によりインタビュー等の記事の掲載日が異なる場合は、掲載ごとに総裁選挙の候補者の氏名を記したうえ掲載し、この場合も上記2の原則を守っていただきますよう、お願いいたします」

制裁

 問題は大きくわけて3つある。第1は、法的根拠なく政党が表現規制を求める行為が持つ危険性についてである。政党は一社会的勢力に過ぎない存在ではあるものの、実際には強い公共性・公益性を有する機関である以上に、政治的には公権力と事実上同一である。しかも、政権党の場合は、政党の政策がそのまま政府方針となり、国家政策として実現されることになるし、党総裁が国家を代表する首相になるのが一般的だ。

 そうした存在である政党の表現規制行為は、まぎれもなく政府=行政権による表現規制と同じような効果を生む可能性が高い。政党の指示に従わなかった場合、過去の例からすると即座に「取材拒否」を行うことで、報道機関にとっての日常的な不利益を生むことを強いてきた。TBSに対しての出演拒否や、テレビ朝日に対しての要請がこれにあたり、いずれも報道機関側が「それなり」の犠牲を払う結果となっている。

 さらには、目に見えない制裁として、その後の行政機関の取材上の便宜が失われることすら、ないとは言えない。言うまでもなく、政府が好ましくない言論を封じ込めたり、特定の表現行為を後押ししたりすることは、決してやってはいけないことだ。憲法でも、検閲の禁止として行政権の事前内容審査は絶対的に禁止されているものの、公民館等の貸し出しや、公営美術館・博物館における作品陳列の拒否や修正要求など、いわゆる行政側の示威的な判断によって表現行為が制約を受ける例が少なからず生じている。しかもその傾向が近年強まっているのが現状だ。

 そうした中で、新たな事例として付け加えることの問題である。党本部は、以前から行ってきたことで、今回が初めてではないと説明しているという。おそらく小泉時代からではないかということだ。また、あくまでもお願いであって、強制ではないそうだ。しかし周辺状況からすると、6年前であれば、受け取ってすぐごみ箱に捨てられていた文書が、いまの状況の中で別の意味を持つに至っていることを、政党自身が十分認識をしたうえで要請しているはずだ。その意味では、同じではないのである。

 また、取材は自由です、としていることから、報道は自由ではないということを強調していることも気になる点だ。それゆえ、こうした行政の威を借りてさも強制力があるふりをして行う威圧行為は、許されるものではない。

「公平」絶対主義

 第2は、とりわけ最近5年つとに強調されてきている、「公平」絶対主義の問題性についてである。自民党は14年の選挙以来、とりわけ公平問題に執着している。在京テレビ局に報道の公平性確保を求める文書を提出、それを受け現場では編成局長名等の注意文書を回覧し、数量平等に努める現実がある。放送法や公職選挙法上の公平報道規定に基づくものとされているが、そもそも公職選挙法は数量公平を言っていない。これは裁判所も認めているところで、「泡沫(ほうまつ)」候補扱いをすることも認めているし、ここで言う公平さは、もっぱら特定の党派性をもった報道方針を持つことはよくない、という意味である。

 一方で放送法は、法自体が違法行為の認定基準として使用されることを予定しておらず、ましてや行政府が法条文をもとに番組内容規制をするためのものではない。あくまでも放送人の職責として豊かな番組を制作するための「心構え」としての倫理的基準に過ぎないのである。しかもここで言う公平は、質的公正さを謳(うた)っているもので、強いて言えば社会の弱い立場、小さい声に耳を傾けるという意味での公正さを求めるものである。

萎縮社会

 そして第3には、今回の文書が新聞・通信社にのみ配布されている、と伝えられていることに対する危惧感である。これまではもっぱら放送に対して強面(こわもて)態度を示してきたが、今回は「あえて」活字を対象としてきたことの意味を考えざるを得ない。放送局は十分に目が行き届いているとの、自信の表れなのかもしれない。さらに、公平要請はここ最近、もっぱら政権批判を許さないとほぼ同じ意味で使用されてきた。その逆(政府支持の言動に対する偏向批判)は、ほぼ皆無であることからもわかる。

 市民社会の中にも、こうした政府の態度に呼応して、政府批判のメディアを口汚く罵(ののし)る風潮が後を絶たない。その攻撃対象として今回は、活字をターゲットにしてきたと言えるからだ。その理由をあえて深読みするならば、憲法改正論議の中で、絶対的な「公平」報道を求め、事実上の批判を許さないという意味であろう。放送には放送法がありいつでも物が言える立場にあるのに対し、新聞は憲法改正手続法においても射程外で、自由な報道を保障されている。それに対して政党が強い懸念を持っていることの裏返しとも読めるからだ。

 それからすると、いま報道機関は、政府・政権党によって、最終段階まで押し込められているとも言え、いかに跳ね返せるかが問われている。まさかとは思うが、この県知事選でも「数量平等」の要請がないとは限らないからだ。


(山田健太 専修大学教授・言論法)