対馬丸、救出の手記発見 11日記念館寄贈へ


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 太平洋戦争中の1944年8月22日、米軍に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の遭難者を救出した、漁師の手記がこのほど初めて見つかった。

手記を書いたのは高知県の元漁師・杉本寛(ゆたか)さん(94年に66歳で他界)。妻の佐賀子さん(80)=高知市=が、対馬丸記念館が那覇にあることを知り「亡くなった夫の思いを伝えたい」と寄贈を決めた。11日に同記念館で贈呈式が行われる。
 手記はA4サイズの紙に、縦書きで万年筆と思われる筆跡で、3ページにわたり当時の様子が詳細に書かれている。鹿児島県の中之島でカツオ漁船に乗り操業中だった寛さんは当時16歳。日本軍の飛行機から投下された通信筒を受けて、悪石島沖へ救助に向かったと書かれている。
 沈没した翌日の23日朝から救助活動を行い「裸になりロープを腰にくくり海中に飛び込み、遭難者にロープを結びつけて50~60人救助した」「四方八方いかだの上で必死に助けを求めているものの、小生たちの船はそれ以上救助は無理」などと書かれ、無念さもにじみ出ている。
 佐賀子さんは寛さんの他界後、遺品整理をして初めて手記を発見した。どこに寄贈すればいいのか分からず、97年に地元紙に一度記事として取り上げられたものの、そのまま保管していたという。「手記の存在は亡くなってから知った。戦争はしたくないという気持ちから書いたと思う」と語った。
 対馬丸記念会の理事長で、生存者の一人の高良政勝さん(73)は「記憶が新しいうちに書いたと思う。救出者の体験が書かれた貴重な資料。鳥肌が立つほど驚いた」と語った。今後、同記念館で展示方法を検討する予定。