比で慰霊の旅続ける 上原清さん、鎮魂願い島々巡る


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小禄遺族会総会で、5千キロを超えるフィリピン慰霊の旅を報告する上原清さん(中央)=5月27日、那覇市の大嶺自治会館

 第2次世界大戦による日米両軍の激しい戦闘に巻き込まれ、約1万2千人の県出身者の命が奪われたフィリピンの島々を巡り、慰霊と交流の5千キロを超える旅を続ける上原清さん(76)=沖縄ダバオ会副会長=は5月27日、那覇市の大嶺自治会館で開いた小禄遺族会(上原榮吉会長)総会で活動報告した。

 日本兵約50万人、フィリピン人約110万人が亡くなった激戦地を巡って5年、上原さんは「生き延びた者として亡くなった方々のため、動ける間は訪れ、役に立ちたい」と話す。県出身者だけではなく、甚大なフィリピン人犠牲者の鎮魂を願い、現地交流を続ける意欲を語った。
 フィリピンには1905年以降、金武、恩納や小禄などから約3万人が移民した。マニラ麻の農場を経営していた上原さんの父・清松さん=大嶺出身、享年(33)=は現地召集され、戦死した。母と上原さんら3人の幼いきょうだいは着の身着のまま、密林地帯の奥へと逃げ惑った。絶望の中で辛くも終戦を迎えて本土に引き揚げたが、栄養失調による病気で妹を失った。その後沖縄に戻ると、沖縄戦で肉親の命も奪われていたと知る。
 県出身者が多かった島を中心に巡り、無数に残る慰霊塔を訪れて関係者の高齢化が進む今後の管理を思案、県系を含む日系人の子孫に当たる多くの比残留孤児にも出会う。その人たちも、もう70代。「元気なうちに自分は日本人だと証明したいと、それには写真が1枚しかないのだと、泣いて訴える人もいる」という。
 現地関係者の高齢化の話に耳を傾けていた小禄遺族会の上原会長(70)は「遺族会もかつては何百人も集まったというが、今日は30人ほど」と話し、高齢化の課題を懸念した。