因島空襲、県人犠牲に 地元紙・青木記者、情報求め沖縄へ


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 アジア・太平洋戦争末期の1945年7月28日、広島県尾道市因島(いんのしま)を襲った因島空襲。この空襲で沖縄から疎開していた母親と子どもの家族6人が犠牲になっていたことが地元で語り継がれてきた。親子は「仲宗根」という名字で、沖縄から大阪に疎開し、その後因島に来ていたこと以外、詳細が分かっておらず、地元有志が調査を進めている。10月27~30日には沖縄を訪れ、調査をする予定で、情報を求めている。

 調査をしているのは地元紙「せとうちタイムズ」記者の青木忠さん(69)。仲宗根さんと青木さんの家は隣接しており、青木さんの家も被災した。当時生後9カ月だった青木さんは、仮死状態になったが、一命を取り留めたという。
 戦後60年近くたって、このことを聞かされた青木さん。「(戦後亡くなった)私のおやじは当時小学校の教員をしていた。きっと仲宗根さんのことも世話しただろう。赤ん坊の私もきっと仲宗根さんと会っている。そう思うと人ごとではなくなった」。沖縄戦の戦火を逃れるために因島に来て、犠牲になった母親と幼い子どもたちに思いをはせる。
 仲宗根一家について聞き取り調査から分かったことは(1)10歳の女の子を筆頭に5人の子どもがいた(2)沖縄から大阪に疎開し、大阪が危なくなったので、祖母を頼って因島に来た―の2点だけ。祖母の消息は不明。当時の小学校の在校生名簿などは焼失しており、名字以外の名前も分からないという。
 因島空襲は、軍事施設でもある造船所が被災したこともあり、被害実態がほとんど残っていない。公式の記録には住民の被害については記されていない。
 2002年から青木さんが調査を開始。体験者が証言し出したことにより、少しずつ被害実態が見えてきた。
 空襲から69年のことし7月28日には、仲宗根さん親子が住んでいた家の跡地で、親子の追悼行事が行われ、尾道市、市議会、関係者らが冥福を祈った。
 青木さんは「詳細が分からないままでは、あの空襲、戦争は終わらない。沖縄に行けば仲宗根さんのことが少しでも分かるのではないか」と話し、情報提供を呼び掛けた。
(玉城江梨子)

<用語>因島空襲
 1945年3月19日と7月28日に広島県尾道市因島の日立造船の工場や周辺の住宅地を米軍機が爆撃した。軍人、造船所従業員、船員、学徒動員生、住民、徴用された朝鮮半島出身者などが犠牲になった。7月28日の空襲は特に激しく、100人以上が犠牲になったとされるが公的な記録はほとんどなく、詳しい被害実態は分かっていない。

仲宗根さん親子が住んでいた家の跡地で行われた追悼行事で祈りをささげる参列者=7月28日、広島県尾道市(せとうちタイムズ提供)
青木 忠さん