約35年間に800冊余り―。米軍統治下の弾圧に抵抗した故・瀬長亀次郎さんが、1950年代半ばから90年まで毎日つくり続けた新聞スクラップ帳の数だ。長年、最初の5冊(54~57年分)が所在不明になっていたが、ことし3月、県内の関係者が借りたままになっていたのが見つかり、瀬長さんの資料などを保管・展示する「不屈館」(那覇市若狭)に返却された。
人民党事件、那覇市長当選、そして追放という、瀬長さんにとって“激動の4年間”が、県内外の新聞で当時どのように報じられていたのかを語る貴重な資料だ。
“激動の4年間”
瀬長さんは1907年生まれ。戦前に沖縄朝日新聞や毎日新聞那覇支局の記者として活動し、46年から49年まで、うるま新報(現在の琉球新報)の社長も務めた。立法院議員だった54年10月、米軍の退去命令に従わなかった人民党員をかくまったとして逮捕され、投獄された。
見つかったスクラップ帳のうち最も古い1冊には、自らが被告となった軍事裁判や、収監中の沖縄刑務所で起きた暴動事件の記事が貼られている。出獄後にまとめて貼られたため、時系列の乱れや欠落も多い。
瀬長さんは獄中の54年11月から日記を付けており、次女で不屈館館長の内村千尋さん(69)は「服役中に記録を残すことの重要性を強く認識するようになったのではないか」と話す。
家族ぐるみで
出獄後、瀬長さんは56年12月の那覇市長選で当選した。その直後から57年11月に市長を追放されるまでのスクラップ帳では、県内紙に限らず、全国紙や西日本新聞(福岡市)などの地方紙、大学新聞、労働組合機関紙まで精力的に集めた様子がうかがえる。少数だがニューヨークタイムズなど海外紙の記事もあり、日付順に整然と貼られている。
内村さんによると、瀬長さんは朝5時に起き、日記をつけた後に新聞を読んだ。保存する記事に印を付け、妻のフミさんが数日分をまとめて貼った。スクラップ帳がすぐにいっぱいになるため、内村さんは中学生ごろから台紙を追加し、ページを増やす手伝いをしたという。
次女が再開へ
スクラップ帳は60年代の終わりごろから「日米共同声明」「労働」など分野別になった。70年に衆議院議員に当選してからは国会質疑で記事を使うため、取り外し可能な台紙を紙ファイルにとじるようになった。
内村さんは「新聞のスクラップは父の執筆や講演、国会での活動の基礎となった」と振り返る。90年に議員を引退してスクラップ帳づくりは止まったが、フミさんが切り抜きを続けた。
内村さんは現在、名護市辺野古や東村高江の新基地建設をめぐる記事を中心に、新聞の切り抜きを保存している。館内の展示や講演活動に生かしているほか「特に重要な記事を中心に、スクラップ帳づくりを再開したい」と準備を進めている。(安田衛)