異様な爆音が転機 仲松さん、10・10空襲の記憶鮮烈


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10・10空襲を振り返る仲松庸全さん。「沖縄には今も爆撃機の音が鳴り響く」=糸満市大度の自宅

 那覇市の9割が焼失した1944年10月10日の空襲から10日で70年を迎えた。人民党の元立法院議員、仲松庸全さん(87)=糸満市=は70年前に経験した空襲について、「これまでに体験したこともない異様な爆音が沖縄を包んだ」と振り返った。

当時は県立第一中学校の5年生で、多くの同級生と同じく皇民化教育の影響により「神の国、日本が勝利すると信じていた」。米軍の巨大な軍事力を痛感し、焼け野原を見詰めた軍国少年に戦争への疑問を抱かせる転機になった。
 「きょうも頑張っているな」。空襲の朝、当初は友軍(旧日本軍)の演習と思い込み、首里市山川町(現那覇市)の自宅から空を眺めた。「北から南に向け、見たこともない数の編隊が飛んでいた」。敵の攻撃と気付き、自宅近くの壕(ごう)へ逃げ込んだ。幸いにも家族と自宅に被害はなかった。
 空襲直後、学校側は近くに住んでいた仲松さんに学校の御真影を守るよう命令した。校内の武器庫から持ち出した三八式歩兵銃と剣を携え、首里城北側の森の奧に構築された師範学校の壕に隠した。暗闇でただ一人、翌朝まで守り続けた。
 10・10空襲後、学校の指示で45年1月に民間通信所に配置された後、過酷な地上戦を体験した。7月に現在の糸満市摩文仁では、日本兵がガマの中で泣きじゃくる少女を銃殺したところを目撃した。仲松さん自身が投降しようとした際も、日本兵が切りかかろうとした。
 戦後は反基地を訴え、平和運動に取り組んできた。8、9月に名護市辺野古で開催された県民集会には車いすで参加し、米軍普天間飛行場の移設に伴う新基地建設に反対の意思を示した。
 8日に87歳になった。仲松さんは「10・10空襲から70年が経過した今も、沖縄の空には爆撃機の音が響き渡っている。権力の暴走を許せば戦争が繰り返されるだけだ」と語り、今後も運動に取り組む決意だ。