<未来に伝える沖縄戦>農作物なく野草、虫食べ 上地洋子さん(79)下


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「いろんな夢を持っていた若者が戦争のために亡くなった」と戦争の悲惨さを語る上地洋子さん=宮古島市平良の自宅

 《空襲をきっかけに、実家に住むことに危険を感じ、城辺・西中に郡内疎開した上地さん家族ですが食料事情は厳しいままで、野草や虫を食べる生活が続きました》

 疎開先は親戚の製糖小屋に、床板を張り、雨戸を付けるなど簡単に改装したもの。そこで8カ月ほど生活することになった。

 西中には私たちの他に、平良からも何人か来ていた。空襲や人手不足で植え付けが難しかったため、畑にも農作物がなく、イモを食べるのも難しかった。親が採ったノビルなどの野草やイモの葉、またバッタやセミなども焼いて食べた。食べたくなかったが、他に食べ物がないので食べられるものは何でも食べるしかなかった。疎開先の近所では、ソテツを食べて一家が全滅したところもあった。
 疎開先は比較的静かな地域だったが、ある日、食材の調達から戻ると、集落の近くで空襲を受けて池のように大きな穴が開いていた。被害はなかったと思うが、とても驚いた。

 《戦争が終わると元の家に戻った上地さん家族。だが食料難の中、島外へ疎開していた人たちや兵士が戻ってきたことにより、苦しい生活がしばらく続きました》

 8カ月程度の西中への疎開を経て、やっと元の家に戻った時はものすごくほっとした。台湾に疎開していた祖母やいとこも無事戻ってきた。9月には学校も再開した。久々に友達に会えるのがうれしく、戦争が終わったことを実感した。
 だが戦後もしばらくは苦しい生活が続いた。栄養不足に加え、水がなく非衛生的な環境だったため、戦中~戦後にかけてマラリアにかかり、亡くなる人も多かった。私の家族も、回復したが7人全員がマラリアにかかった。高熱にうなされるが、氷がない。やかんに水を入れてちょろちょろ流して冷やし続けた。

※続きは10月26日付紙面をご覧ください。