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学術分野のユダヤ系アメリカ人 ノーベル賞受賞者の2割 鈴木多美子


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 世界人口の0.2%と推定されるユダヤ人だが、ノーベル賞の受賞者で見ると全体の約20%、実に5人に1人を占めている。ユダヤ人の学者、医師、科学者、弁護士は多く輩出されているが、1950年代までは一流大学への入学が規制されていた。ユダヤ人教授、講師陣もごくわずかだった。43年にハリー・レビン氏がユダヤ人として初めてハーバード大学の教授に就任する。ユダヤ人女性初のアイビーリーグの学長になったジュディス・ロディン氏は心理学者であり篤志家としても活躍している。
 社会学者、エズラ・ボーゲル氏は日本や中国について研究し、79年に「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」を出版し日本でベストセラーになった。未来学者のハーマン・カーン氏は「超大国日本の挑戦」や「日本未来論」などを出版し、21世紀は日本の世紀と断言したが、平成不況を予測できなかった。経営学者ピーター・ドラッカー氏は、著書「現代の経営」などで日本の企業人に影響を与え、2005年にドラッカー学会が設立された。基本的関心は「人を幸福にする事」。たびたび来日し、日本の古美術を収集した。
 ルース・ベイダー・ギンズバーグ最高裁判所判事はユダヤ人家庭で育ち、母親から自分の感情をコントロールし、怒りやそねみに流されないように「淑女たれ」、そして「自立せよ」と教育された。それが判事になってから役に立った。ハーバード大学のロースクールに進み、同じロースクールの夫と学生結婚をし娘が生まれた。学業に子育て、さらに夫にがんが見つかり、その看護で大変な時期だったが、ギンズバーグ氏はそれらを乗り越え、コロンビア大学ロースクール大学院を首席で卒業した。
 就職活動を始めるがニューヨークの企業からは一つも採用がなかった。学業でトップでも1950年代当時は、ユダヤ人、女性、さらに母親である事が大きなハンディだった。その後、地域裁判判事の判事助手の職に就く。そしてコロンビア大学のロースクールで女性として初の常勤教員となる。アメリカ自由人権協会で法律顧問に就任し、性差別に関して原告代理人として数多くの法廷で闘った。女性差別を違憲とする判決を勝ち取るなど、半生を通して女性の権利向上に尽くし法律家として名声を博した。
 93年に連邦最高裁判事に任命された。2009年に膵臓(すいぞう)がんになるが引退せず職務を全うする。18年に肋骨(ろっこつ)を折り、同時に肺にがんが見つかり摘出手術を受け復帰する。ギンズバーグ氏は、自分が職を退いたら公平でない決定事項になり、米国の価値観が変わる事を懸念しながら20年に死去した。ギンズバーグ氏が案じた通りトランプ氏は保守系の判事を指名し、保守とリベラルが6対3になった。それに対する抗議デモが全米430カ所で、10万人規模で行われた。
  (バージニア通信員)