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「七つの地獄まとめた」 那覇で公民館平和講座喜屋武幸清さん(85) 壕の外に幼子置いてきた母


「七つの地獄まとめた」 那覇で公民館平和講座喜屋武幸清さん(85) 壕の外に幼子置いてきた母 沖縄戦体験を鮮明に振り返る語り部の喜屋武幸清さん=9日、那覇市牧志駅前ほしぞら公民館3階ホール
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 【那覇】沖縄戦当時6歳で、弟、妹と生き別れた喜屋武幸清(こうせい)さん(85)が体験を伝える那覇市牧志駅前ほしぞら公民館の平和講座「沖縄戦、摩文仁での壮絶体験を語る 平和のために今できること」が9日、同公民館で開かれた。喜屋武さんは冒頭、「人類の歴史の中でも、こんなに小さな沖縄で20万人余りが犠牲になった。七つの地獄をまとめたのが沖縄戦だ」と語り、自身の体験を鮮明な記憶で振り返った。
 喜屋武さんは1938年、テニアン島生まれ。44年にテニアンから神戸を経て、沖縄へ引き揚げた。那覇に着いてまもなく10・10空襲に遭い自宅が全焼し、お墓に避難する生活が続いた。
 沖縄戦が始まって、ある日、艦砲射撃がお墓に命中した。幸い家族全員が助かり、日本兵の車に乗せられ南風原の陸軍病院壕へ向かった。しかし、陸軍病院壕は多くの避難民がいて隠れる場所がなかった。他へ避難する途中で、祖母と祖父を相次いで砲弾で失った。
 その後、親戚と合流し、糸満市摩文仁へ。摩文仁から見ると、大海原が真っ黒になるほど軍艦が埋め尽くし、艦砲射撃が打ち込まれたという。就寝中、腕枕をしてくれていた叔母に砲弾の破片が当たり亡くなった。その後たどり着いた壕で、日本兵は幼子を抱えていることを理由に、中に入ることを許さなかった。母は4人きょうだいのうち、下の弟と妹を壕の外に連れ出すことを決めた。戦後、母から聞いたのは、壕まで追ってきた弟を遠くへ置いてきたということだったという。
 母は54年に、心臓の病のため30代の若さで亡くなった。喜屋武さんは「地獄のような戦争を生き抜いて助かったと思っても喜べない。母には怖くて聞けなかった」と苦しみを語る。「今思うと、母は毎晩のように泣いて、(置き去りにしてしまった子へ)謝っていたと思う。そう想像するしかない」
 喜屋武さんの夢には母が現れるという。「あなたが話さなければ何もなかったことになる。誰かが伝えなければ沖縄戦が地獄だということは分からない」と、背中を押されているようだと振り返る。「戦争体験は体験した人が語らなければ永遠に葬られる。自分で自分自身に言い聞かせている。僕がここで話していることは、おふくろも喜んでくれていると思う。沖縄戦を風化させない」と力を込めた。喜屋武さんの話に、聴講者の中には涙ぐむ人もいた。(田中芳)