沖縄を代表する観光資源であり文化発信拠点として大きな役割を果たした首里城は、琉球王国時代から焼失と再建を繰り返した。一時は城内に神社や大学が建てられたり、地下に司令部壕が設けられたりするなど、波乱の道のりを歩んできた。県民に大きな衝撃を与えた2019年10月31日の火災から4年。首里城の歴史を振り返るとともに、復興に向けた取り組みを紹介する。
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琉球の歴史・文化の象徴
1429年から1879年まで約450年続いた琉球王国。北山・中山・南山の三つの勢力に分かれていた三山時代を経て、中山の尚巴志が1429年までに三山を統一し、誕生した。
その首都・首里に築かれた首里城は琉球の歴史と文化を象徴する存在だ。政治や外交を行う行政エリア、国王やその家族らの居住エリアに加えて、祭祀に関する聖域が同居していた。沖縄を含む琉球弧で12世紀~16世紀に築かれた「グスク」の一つで、国内の城郭との類似点から「城」の字を当てている。
首里城は外郭と内郭の二つの城郭からなり、広さは東西約400メートル、南北約270メートル、総面積約4・7ヘクタール。正殿は二層3階建ての木造建築で、琉球の高い技法を駆使している。13世紀末から14世紀のグスク造営期に創建されたと推定され、1509年に正殿前に龍柱などを設置、16世紀には北殿や待賢門(たいけんもん)(後の守礼門)などが造成された。
焼失のたび復元 世界遺産に登録
首里城は今回を含めこれまでに5回焼失し、そのたびに再建されている。三山統一から24年後の1453年、王位継承を巡る争い「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」で全焼した。1660年には失火が原因で焼失し、当時、財政難だったために再建は約10年後だった。
1709年にも失火で焼失した。薩摩から材木などの支援を受け、12年から15年にかけて再建された。
廃藩置県に伴い1879年に国王が首里城を明け渡した後は取り壊しが一度は決定されたが、研究者らの働きかけで中止になる。1920年代から30年代にかけて大規模な修理が施され、その間に1925年には正殿が「沖縄神社拝殿」として日本の国宝に指定されている。
45年、沖縄戦で日本軍の第32軍司令部壕が地下に設けられたために米軍の攻撃目標になり、一帯は壊滅的な被害を受けた。
戦後、50年には跡地に琉球大学が開学。同大は84年までに西原町などへ移転する。そのため80年代から首里城公園の整備計画が進められ、92年に正殿などが復元されて一般公開が始まった。2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして首里城跡が世界遺産に登録され、沖縄を代表する観光名所として知られた。
火災では場内に保管・展示されていた美術工芸品の多くも被害を受けた。収蔵品1510点のうち、391点が失われたとみられる。火災後に現存が確認された1119点のうち、364点は修理が必要な状態で、全体の修理には最短でも約20年かかるといわれている。
世界から支援 復興過程公開
2019年の焼失直後から、首里城再建に向けた機運は高かった。県内だけでなく県外、海外でも募金活動が活発に展開され、県の「首里城復興基金」には22年3月までに約55億円が寄せられた。同年4月からは首里城に象徴される固有の歴史や文化の継承に向けての人材育成やまちづくりに活用される「首里城未来基金」が創設され、復興基金と合わせて23年3月末までに約57億3700万円が寄せられている。
正殿は26年秋の復元を目指し作業が進んでいる。正殿の構造材として使われる国頭村産の御材木(おざいもく)「オキナワウラジロガシ」の搬入は琉球王国時代、首里城の建築木材を搬入する際に行われた「木曳(こびき)式」を再現した。22年10月29日に国頭村を出発した木材は沖縄本島各地を巡った後、建設現場に到着し、11月3日、正殿跡地で起工式が行われた。正殿の完成後、北殿や南殿などの整備がスタートする。防火・防災対策として火災感知器と連動する監視カメラや、スプリンクラーの新設など幾重にも強化する予定だ。
「令和の復元」では伝統技術の活用と継承のため、木材や塗料、瓦などに県産素材を多用し、技術継承にも力を入れる。正殿の修復については約30人の宮大工が携わっており、そのうち県出身者は10人で、今後も県出身の職人が増える予定だ。また龍頭棟飾(りゅうとうむなかざり)は壺屋の陶工と「平成の復元」の技術者が協力する。
再建の過程を可能な限り公開する「見せる復興」にも力を入れている。復元中の正殿を風雨から守るために覆う「素屋根」(南北42メートル、東西33メートル)は一部に見学エリアが設けられ、工事の模様を間近に見られる。木材倉庫・原寸場には見学デッキも併設され、職人の作業風景を見ることができ、工程などの最新情報を紹介している。